空き家だらけになった、宮城県気仙沼市内の仮設住宅(記者撮影)

東日本大震災の被災地で、誰にも看取られずに死後に発見される「孤独死」が後を絶たない。宮城県によれば、震災後に建設されたプレハブ仮設住宅孤独死した被災者は今年7月末までに103人、終の住処とされる、災害公営住宅でも56人に上る(宮城県警調べ)。

その多くは高齢者だが、40代の若さにもかかわらず、生活困窮の末に命を落とした人も含まれる。被災地では孤独死を防ぐべく、見守りや安否確認の活動が続けられているが、その限界が指摘されている。

ある40代女性の死

そのことを象徴する出来事が、宮城県気仙沼市で起きた。今年6月末、市内のある仮設住宅で独り暮らしの40代女性・アヤさん(仮名)の遺体が発見された。

異変を察知したのは2年前まで同じ仮設住宅で暮らした後、現在市内に建てられた災害公営住宅に移り住んでいるシズエさん(仮名、78歳)だった。

その時の様子をシズエさんが話し始めた。

「確かその日の午前10時頃だったと思います。たまたま仮設住宅の近所で畑仕事をしていたら、東北電力の車が仮設住宅の駐車場に止まってね。作業員の人が脚立を立てて電気のメーターをいじり始めたんです」

「どうやら料金の滞納が理由で、電気を止めようとしていたんですね。『その家は人が住んでいますよ。電気を止めたら命にかかわりますよ』。私がこう伝えましたところ、『空き家ではないのですか』と驚かれた。もう誰も住んでいないと思っていたんですね」

心配になったシズエさんは、市役所の地域包括支援センターに電話を入れた。同センターは主に介護が必要になった高齢者や家族の相談に応じたり、地域での高齢者支援活動で中心的な役割を担っている。働き盛りの世代への支援が必要な場合は、担当の部署につなぐ。

午後5時過ぎ、シズエさんの携帯電話に警察と地域包括支援センターからたて続けに電話が入った。シズエさんはこの時、アヤさんが亡くなっていたことを知らされた。

後でわかったことだが、死後3週間が経過していた。

仮設住宅の一室で何が……

「あの時に、市役所がもう少し動いてくれていれば……」

シズエさんは今も市役所の対応に割り切れない思いを感じている。一方で「自分でも、もっと何かできなかったのかという思いもある」という。

「あの時」とは、「ガスを止められている」と知った5月末だった。


アヤさんは料金の滞納が続き、ガスを止められていた(記者撮影)

仮設住宅の各戸にはプロパンガスが引かれており、住民は使用料を払わなければならない。料金の滞納が続けば、やがては供給を打ち切られる。

「アヤさんがガスを止められている」。かつて同じ仮設住宅で暮らしていてアヤさんとは震災前からの旧知の間柄だった幸子さん(仮名)から、シズエさんはそのことを知らされた。この時、幸子さんはスーパーで弁当を買ってきて、シズエさんと一緒にアヤさんに届けた。弁当であれば、加熱調理の必要がないとの判断からだった。

その時のアヤさんの様子を、シズエさんは今も鮮明に覚えている。何度も戸を叩くと、起きぬけで髪の毛もぼさぼさのアヤさんが顔を出した。

「私はあんたが小さい時から知っているんだから、何か困ったことがあったら遠慮無く言ってちょうだい」と幸子さん。

だが、アヤさんは「構わないでください」と言うばかりだった。「ここ(仮設住宅)を出なくてごめんなさい」。アヤさんはそう話すや、すすり泣き始めた。

実はこの時も、シズエさんは地域包括支援センターにSOSの電話を入れていた。「仮設住宅に住む女の人がガスを止められて困窮しています。何とかしてやってください」。

電話を受けた地域包括支援センターは、仮設住宅の見守りを担当するサポートセンターに話をつないだ。しかしサポートセンターの職員はアヤさんに会うことができないまま、1カ月が過ぎてしまった。アヤさんが変わり果てた姿で見つかったのは、それから間もなくのことだった。

「ご本人が居留守を使っていたようで、サポートセンターの職員もなかなか会うことができなかった」。同センターを所管する気仙沼市の高齢介護課の課長は取材でこう説明した。

同席した生活保護の担当部署の課長によれば、保護の申請は出ていなかったという。「ご本人から明確なSOSがなければ、なかなか対応は難しい」。生活保護担当部署の課長は支援の限界について語った。

市役所は手をこまぬいていたわけではなかった。アヤさんは震災前から母親と同居していたが、震災から2年後に母親が病気で亡くなり、家計の支えだった母親の年金収入が断ち切られた。アルコール依存症もあり、サポ-トセンターによる見守り活動でもフォローが必要なケースに挙げられていた。

アヤさんはコンビニエンスストアで働いていたこともあったが、仕事に突然来なくなり、周囲をやきもきさせた。うつ症状も悪化し、仮設住宅の自室に引きこもりがちになっていった。

相次いだ自治会の解散

同じ頃、仮設住宅の状況も大きく変わっていった。市内で災害公営住宅が相次いで完成し、仮設住宅の自治会の解散が相次いだ。世話役を務めていた仮設住宅の自治会長らも転居し、目をかけてくれる人がいなくなった。

そうした環境の変化とともに、アヤさんを追い込んだのが災害公営住宅の家賃の問題だった。「思ったより家賃が高い」。そう感じたアヤさんは災害公営住宅への入居を2度もキャンセルし、周囲を慌てさせた。その一方で、生活保護については、「兄弟に迷惑をかける」という理由で、知人に勧められても申請に出向くことはなかった。病気がちだったが、通院も途切れがちだった。借金も抱えていたという。


気仙沼市が作成した支援者ミーティングの議事録(2012年当時)。仮設住宅ごとにフォローが必要な人の情報を集めていた(記者撮影)

しかし、いつまでも家賃のかからない仮設住宅にとどまることは認められていない。市役所からは、転居先についての説明を求められていた。アヤさんは精神的にも追い詰められて、門戸を閉ざすようになっていった。

「ガスを止められたことを知った時点で、思い切った対応はできなかったのか」

本誌記者の質問に対して、「そこまで生活が困窮していたとは想像できていなかった」と前出の生活保護を所管する部署の課長は説明した。「年齢が若く、仕事をしていたこともあったので、すぐに生命の危険があるとは認識できていなかった」とも課長は話した。

しかし、ガスを止められたこと自体、尋常ではない。そのことを知った段階で、市はアヤさんを生活困窮者と見なして支援の方途を探るべきではなかったのか。

取材を進めていく中で、市の委託で生活困窮者を支援するNPO団体にアヤさんの情報が伝えられていなかったことがわかった。仮設住宅で起きている問題については、2カ月に1度開催される「地区ミーティング」で情報が共有されているが、困窮者支援にかかわる団体はメンバーには入っていなかった。

「当事者の方に壁を作られてしまうと本当に接触が難しい。会うことを拒絶されるとそれっきりになってしまう」。前出の課長はフォローの難しさをこう説明した。仮設住宅の入居期限が近づく中で、転居を求める行政との接触を避けていたことも想像できる。

見守り主体の限界

アヤさんの事例から浮かび上がるのが、見守りや安否確認を主体とした仮設住宅での支援活動の限界だ。

気仙沼市では震災後に国の法改正を踏まえて「被災者台帳」を作成し、住まいに関する支援制度の活用や義援金受け取りの状況などを個々人ごとに一目でわかるようにしている。しかし、そこには生活保護や障害者福祉制度の利用などの福祉関連の情報は含まれていない。

震災後に導入されたサポートセンターによる見守り活動も、その多くは高齢者とした安否確認にとどまっている。助けが必要な被災者一人ひとりに寄り添い、個々人が抱える生活面での問題解決に一緒に取り組む例はあまりない。

友愛訪問員や生活支援相談員など、市役所から委託を受けた臨時職員が見守りや安否確認活動を担っているが、「自分たちで問題解決するのでなく、事実確認をしっかりしてサポートセンターにつなぐのが仕事である」と、気仙沼市の内部資料には記されている。あくまでも支援の必要性について判断するのは市役所の担当課だとされている。


仮設住宅の入居率は9%まで下がっている(記者撮影)

アヤさんの死亡について、気仙沼市では「孤独死とはとらえていない」(前出の生活保護担当部署の課長)という。その理由について、課長は「周りの人たちとの交流がなかったわけでない」ことを挙げている。「年齢が若く、すぐに生命の危険があるとは思いも寄らなかった」(同課長)ともいう。しかし、そのとらえ方はあまりにもしゃくし定規ではないか。

貧困問題や震災被災地の事情に詳しい湯浅誠・法政大学教授は、「今の仮設住宅では入居者の多くが転居し、空き部屋ばかりになっている。被災者の孤立リスクは非常に高く、とりわけ生活困窮者は支援制度の谷間に落ち込んでしまいがちだ」と指摘する。

湯浅氏は、「分散していた仮設住宅が集約され、転居が繰り返される今の時期は、残された人が非常に危うい状態にあるという認識で個々人の問題に対処すべきだ」と言葉を続ける。

気仙沼市によれば、プレハブ仮設住宅の9月末の入居は309世帯、658人。入居率は昨年9月末の49%から9%へと大きく下がっている。もはや住民同士の支え合いは機能しなくなっている。その中に、自らSOSを発することができない弱者が取り残されている可能性がある。