教育はそんなにいいものなのか(写真:kou / PIXTA)

子どもの可能性は、型にはめない多様な学びの中で生まれると、『「天才」は学校で育たない』を書いた白梅学園大学の汐見稔幸学長は説く。

学校で身に付けたものはそんなに多くない

──原点に立ち返り「学び」を論じていますね。

自分が育ってきたプロセスを考えても、学校で育ててもらった実感がない。学生時代は僕にとって戦後のいい時代で、友人ができたことは大きな意味があったが、学校で身に付けたものはそんなに多くない。教育に世間が考えているほどの力があるのか、教育はそんなにいいものなのか、との疑問が、教育学を長年手掛けながら消えることはなかった。

古代までスパンを広げて眺めると、歴史上に優れた人物はたくさんいる。そういう人物はまず学校に行ってない。学校に行かなければ優れた人物は育たないと考えるのは現代的な幻想だ。人物を育てたのは何だったのか。その時代、時代においての向き合い方だったのではないか。

──向き合い方?

たとえば僕の父はかっぽう料理店の息子で、小学校しか出ていない。板前修業を強いられたが、当時生まれたばかりのラジオにほれ込み自作した。物づくりに執着があって、家を出てやりたかった機械いじりに転じ、戦前のテイチクの録音技師になって、戦後はレコードを作る仕事を手掛けた。

仕事のことを父から直接聞いたことはない。ただ、五味康祐という作家が雑誌にレコード製造技術について書く中で、ドイツ・ハルモニア・ムンディのレコードが随一としながら、1人だけ日本にも任せられる人物がいると紹介した。それが私の父親で、後で父本人に聞いたら、五味が会社に来たことがあったとか。

──職人気質で寡黙だった。

耳がいい男だったようだが、現代風に言えば発達障害だったのだと思う。音に対してはものすごく長けていたが、対人関係は得意でない。物を作らせたらすごいぞという人は昔からたくさんいた。彼らは必ずしも職人になれといわれたから職人になり、そして職人気質になったのではない。もともとそういう気質だったから職人になったらすごい仕事をする。

父は戦後テレビができたときに、大阪の日本橋の電気街に行って設計図を見つけ部品を買い、仕事から帰った後にはんだ付けからテレビを作った。完成前はブラウン管に映るかどうか1週間ぐらい家で調整したから、その間、家族はテレビが見られた。頼まれて市価の4分の1の値段で数十台は作ったようだ。

仕事ができる人間と学歴は関係がない


汐見 稔幸(しおみ としゆき)/東京大学名誉教授。1947年生まれ。東大教育学部卒業、同大学院博士課程修了。専門は教育学、教育人間学、育児学。育児や保育を総合的な人間学と位置づけ、その総合化=学問化を自らの使命と考えている。2007年から現職。同短大学長も兼務(撮影:梅谷秀司)

──人には得手不得手があると。

もともとそう。誰もがそんなにいろんなことができるわけではない。むしろ可もなく不可もなしのことをいっぱいやり、満遍なくできる人間ほどつまらないものはない。それより、こっちは苦手だが、これをやらせたらすごいという人はたくさんいる。でも、「平均的な底上げ」を得意とし、「年相応の学び」を提供してきた学校教育は、そういう人間を伸ばせるシステムとはいえない。

──優れた大人のイメージは父親ですか。

印象的だったのは近所の大工の棟梁。その人のやっていることを見ていると、すごく格好いい。僕自身、自分用の大工道具一式を小学校に入る前には持っていた。父は仕事人としては一人前だが、学歴がないからNHKの音響技師に応募して断られたということもあったらしい。

本当に仕事ができる人間と学歴は関係がない。上手な手助けのシステムがあれば、人は勝手に育っていく。自分で自分の人生を作っていると実感できれば後悔もない。もちろん医学など大学に行かないと学べないことはたくさんある。だが、そこに行かないと研究できないのだから、それはほとんど職人仕事だとも言ってもいい。

──没頭できるものとの出合いが大切?

世の中、こういう枠組みがあるから、そこに入りなさい。その中で、点数取りの競争をして、それに向いているからと銘柄の大学に入って、それも末は博士か大臣かではなく大企業の課長止まり。今のリクルートシステムの主流はこう作られているが、教育はそんなつまらないものではない。

文学作品を読んで感動して、こういうものを書いてみたいと文学教室に入ってみる。いろんな人と出会い、切磋琢磨し合う。結局プロにはなれなくても、今でも自作に励んでいる。そうであれば人生に満足できる。文章ではなく、料理にはまってその世界に入っていってもいい。

本当の文化に出合い、そこで没頭する、凝ってみたいと高揚する。それこそが生きていくうえでのテーマなのだから頑張ってみる。そういうシステムがあったら、もっと面白く、アイデア豊かな人間が育つのでないか。

教育の本来の姿

──師を選べ、ともあります。

歴史的に見て強制的に勉強させたのは古代ギリシャのスパルタぐらいしかない。教育は学ぶ側が主体で、本来は先生を選んで始まる営みなのだ。中でも宗教家は皆そう。こういうものになりたい、こういう力を身に付けたいとの初心が学ぶ側にあって、師を選ぶ。これが教育の本来の姿だ。

今の学校は小学校、中学校とも勝手に割り振られる。この先生に学びたいと選んでいない。ただ社会や国家が先に立ち、必要な人材になれ、税金でやるから来させよとなってしまっている。もっとラディカルに考え直したほうがいい。

──授業は午前だけで十分とも。


本来の教育は学ぶほうが優れた人や文化に出会い、あれをやってみたい、この人と語り合いたいと発起し、その取り組みを励ましていくことだ。今の教育は、基本的に指示に従って上手に点数を取れば安泰な人生が送れるとした「修練」に陥っている。指示からはみ出たやり方やオリジナルなやり方ができる人間はなかなか育たない。

最低限の読み書きそろばんは必要だとしても、それは学校の午前中だけで十分だ。午後は子どもがそれぞれ自分のやりたいことを見つけて、それを伸ばすことに専念する。そのやり方を学校が認めてくれないなら、その学校の存在意義は薄い。そうしたほうが、絶対面白い子が育つからだ。

特に、企業人に問いたい。経済のためと強制的に産業人予備軍を育てるサラリーマン養成学校のようなものが、本当にうまく機能しているかと。