日本人は「整った自然」を好む傾向がある(写真:gandhi / PIXTA)

日本人に自分の国の特徴を尋ねると、かなりの確率で「四季があります」という答えが返ってくる。厳密には地球の各地に四季はあるので、別の国の誰かにとってこの答えはばかばかしく思えるかもしれない。しかし、日本でいう「四季」は、春、夏、秋、冬のように1年を4つに分けた名称を指すのではなく、特徴のはっきりした4つの季節を指すように思える。

世界においても、日本のように天候や植物、農産物、習慣などが異なる季節があるところは珍しい。また、日本には季節ごとに開かれる祭りが数々あり、季節というものが古来、文学や詩歌、芸術において非常に高い割合で取り入れられている。

日本人が桜を美しいと感じる理由

桜は、最も有名な日本的の象徴のひとつであるが、これは別に桜が日本にしかないからではない。むしろ、これは日本人が桜の美しさに深い感銘と魅力を感じているからである。

たとえば、数え切れないほどの文学作品で、桜の寿命の短さの比喩が使われている。ぱっと咲きほこり、さっと、地面に枯れ落ちる(死)――。見ている人が嘆き悲しむ点は、花の一生は短すぎる、という点である。桜は人間の存在と、死というものを甘受しようともがく私たちを反映しているのだ。おそらくそれが、桜が奥深く美しく見える理由の一つだ。そして、この桜に対する独特な考え方が、実に日本的だと感じる。

もうひとつの例は「わびさび」である。これは日本の芸術、文学、哲学、思想など、全般に浸透している。自然の姿、物体、そして生き物との相互関係は、不完全さやはかなさといった、美に焦点を当てたこの世界観の重要な部分である。

わびさびの美学としてよく知られている例に、枯山水(禅寺の石庭など)、自然を強調するため、人が作った形というよりは自然さを強調させるためわざと不完全に作られた陶器、周りの自然の中でより目立つというよりはむしろ溶け込んだ木製建築などがある。

神道で最も神聖な伊勢神宮さえも、わびさびの生きた見本なのである。実際、正殿や社殿は20年に一度取り壊され、そしてまた一から建て直される。美とはかなさの重要性を物理的に表現するために、それ自体が自然界にしっかりと結び付いていることを宗教を通じて知る、これよりよい方法があるだろうか。

また、日本人は詩や散文、あるいは友人宛の手紙であろうと、あらゆる形でものを書く際、しばしば自然と季節の要素を取り入れることがある。正式な手紙は、通例季節への言及から始まる。俳句はというと、伝統的に自然を題材とし重視してきた。また、自然を使った比喩は文学において非常によく見受けられる。

日本文化における自然の重要性については疑問の余地がない。こうした日本人の四季のとらえ方は、特に欧米人とは大きく異なっている。

私は、緑豊かな自然に囲まれたオレゴン州で生まれ育った。その中で、大自然の恵みをすべて大切に思い、敬い、そして楽しむように教わった。実際、オレゴンに住む多くの人は、自然は親しみやすく魅力的で、冒険と発見の舞台だと考えている。もちろん、私たちも季節の移り変わりに強い愛情がある。

手つかずの自然に長時間浸りたい日本人は多くない

日本に移住した当初、日本文化や日常生活における季節の重要性を知った私は、日本人はさぞかしキャンプやほかの野外活動が好きなのだろうと考えていた。が、実際には、手つかずの自然や野生に長時間浸りたいという日本人はほとんどいない。それよりは、日本人は手入れが行き届いた風景式庭園、盆栽、芸術的な生け花、整備された温泉風呂など、「きれいに整った」自然空間を好む傾向にあると感じる。

さて、突然だが、ここで質問したい。公園や庭園、風景式庭園、人工ビーチ、温泉風呂は「自然」といえるだろうか。


「整った自然」は、欧米人からすると、本当の自然ではない(写真:筆者撮影)

欧米人の観点からいえば、答えは絶対に「ノー」だ。こうした空間は、自然とは別のカテゴリーに属している。多くの欧米人にとって「自然」や「野生」とは、雄大な川や高くそびえる山脈、広大な草原などである。

これとは対照的に、日本では庭園や公園を自然と呼ぶのは至って普通のことである。それが木々や花々、水のようなもので満たされているなら、それは自然の景観であると考える。手つかずで原始のままの自然と、「整った自然」の両方が自然というカテゴリーに入っているのである。

さらに、欧米人が自然と呼んでいるもの、たとえば未開発の原生地や水のある場所は、普通の日本人の視点からは危険で恐ろしいところだ、と考えられている。まっとうな理由だ。

振り返ってみると恥ずかしい話なのだが、日本に移住してまもない頃、日本人の自然に対する苦手意識や恐怖感は、大部分が都市化されすぎていることからくるもの、という根拠ない理由に達した。たとえば、オレゴンの人たちは、自然への愛と称賛をつねに表すことで、自然と深くつながっていると感じる。キャンプやハイキングが好きなのはそういった理由からだ。

が、しばらく経って、この考えが完全に間違っていたことに気がついた。都市化というものは日本人の自然に対する苦手意識などとはほとんど関係がないのだ。

日本人が自然と距離を置かなければならない主な理由は、日本の自然は真に恐ろしいものになりうる可能性があるからである。オレゴンの例でいえば、出合う可能性がある最悪なものとは、たまに遭遇するクマや毒クロゴケグモ(あまり人前には現れないが)、あるいは南東部の砂漠の場合だと、サソリやガラガラヘビくらいなものだ。数日間大雨が降り続くこともあるし、森林火災が発生することもある。しかし、大自然での生活の中で、心配することは多くなかった。

日本人は自然災害と共生してきた

これに対して、日本では多くの地域に住むスズメバチでさえも、死を招く可能性がある。スズメバチによる刺し傷は、猛烈に痛い。同様に、全国のあちこちの海にいるクラゲは悲惨な痛みを与えることができ、時には一部のヘビと同様に、刺された人を入院させてしまうことさえある。そして、田舎で遭遇するホラー映画から出てきたような巨大な有毒ムカデ(トビズムカデ)を忘れてはいけない。長さ30cmまで成長し、かまれると激しい痛みや悪寒、発熱などを引き起こす。

日本は自然災害も頻繁に起こる。巨大地震や津波、地滑り、台風、火山、そして洪水――。もちろん、こうした自然災害は世界各国で起こっているが、日本はまさにこうした災害と「共生している」といえる国だ。

2011年に東北地方で起こった東日本大震災は、世界で記録された中でも最も大きな地震のひとつであり、世界で最も洗練された耐震対策を誇っている日本でも、約1万6000人の死者、2500人以上の行方不明者を出した。

1923年の関東大震災では、震災、火事、火災旋風などでも14万人以上が死亡した。2016年の熊本地震も、2017年の九州の大雨に起因する激しい洪水も、街を破壊し、多くの人の命を奪った。日本はつねに、こうした大きな自然災害と歩んできた国なのである。

そう考えると、日本ではなぜ自然が、恐怖、あるいは、畏怖の念を持たれているのか理解できる。欧米にある多くの国と異なり、自然災害という面においては、日本は本当に危険なところなのである。

もちろん、日本人が自然にある種の恐怖感を抱いているからといって、日本人が自然との深い結び付きを感じていないとか、敬意を表していないということではない。自然は恐ろしいものかもしれないが、同時に日本人にとって大事なものであることは間違いない。それは、前述のとおり、自然が日本の芸術やライフスタイル、文化、信念などにしみこんでいることを考えれば明らかである。

日本人の自然への考え方は尊敬されている

こうした日本人独自の自然に対する考え方や概念は、欧米人のそれとはだいぶ違うが、最近は少しずつ広がり始めている。自国文化と違うからと言って敬遠されるのではなく、日本的な考え方はむしろ尊敬されているのである。

たとえば、日本庭園や日本の美術、文学、インテリアデザインは世界中にファンが多くいるし、神道や禅といった宗教に基づいた自然を尊重する姿勢や、自然に関連している武道の考え方は、外国では大変興味深いと思われている。

私自身は、自然は美しいものという感覚を子どものころから持っていたが、日本に来るまで自然というコンセプトをしっかりと熟考する機会はなかった。日本という独特の文化はその機会を与えてくれた。

「整った自然」は、自然とつながりながら季節の変化を楽しむ最も安全な方法だろう。だからこそ、風景式庭園、盆栽、生け花、季節の花(桜や梅など)が重要なのだ。これは日本独自のものであり、凄まじい迫力を有する自然に対する深い敬意を表しているものと感じる。