日本貿易会/伊藤忠商事 会長 小林 栄三(こばやし・えいぞう)1949年、福井県生まれ。大阪大学基礎工学部を卒業。72年伊藤忠商事入社。情報産業ビジネス部長、情報産業部門長などを経て、2000年6月執行役員。02年4月常務、04年4月専務、同年6月社長。10年4月岡藤正広氏に社長を引き継ぎ会長。14年5月より日本貿易会会長も務める。

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プレジデント誌の対談連載「弘兼憲史の『日本のキーマン解剖』」。今回のゲストは伊藤忠商事の小林栄三会長です。日本独自の総合商社は「生まれついての"BtoB"」。しかし、「川中」で手数料を取るだけの存在であれば、「要らない」といわれるようになりました。総合商社はどうやって"不要論"を乗り越えたのか。小林会長に聞きました――。

■TPPアメリカ離脱「寂しいことです」

【弘兼】伊藤忠商事の会長だけでなく日本貿易会会長も務められています。そこではどういった活動をしているのですか?

【小林】貿易に関わる60以上の企業・団体の意見を取りまとめて、政府や関係機関に提言します。たとえば税制はこうあるべきだ、あるいは貿易協定や人材育成はこうしてほしいなどという内容をまとめ、場合によっては官邸に持って行ったり、関係省庁に働きかけたりしています。

【弘兼】TPP(環太平洋経済連携協定)については今後どう考えていますか。

【小林】経済規模という観点から考えるとアメリカがいないのは寂しいことです。ただそれでもTPPのようなコンセプトは必要だと思います。今、世の中は保護貿易主義に傾いていますが、各国の経済が発展していくためには貿易・投資の自由化を進めることは大事なことです。

【弘兼】この連載では様々な業界のリーダーに登場いただいていますが、実は商社は小林さんが初めて。

【小林】(微笑みながら)商社が何をやっているのか、外から見ているとわからないでしょう?

【弘兼】そうなんですよ。昔は輸出入に関わる仕事というイメージでしたが、今はコンビニやインフラなど、様々な分野で名前を聞きます。

■専門でも集合でもなく「総合商社」

【小林】海外の投資家が商社の株を購入するとき、「この資金はどこに投じるのか」と聞かれたことがあります。自動車メーカーであれば自動車に投資することはわかる。でも、商社はそれが見えないと言う。

【弘兼】どう答えましたか?

【小林】そのときに一番いい分野に投資します、と。

【弘兼】総合商社らしい答えですね。

【小林】ただ、外国人には理解し難いようです。「では投資できません」と何度か言われたことがあります。

【弘兼】伊藤忠、三菱商事、三井物産、住友商事、丸紅などの総合商社は日本独自のものですよね。

【小林】ええ。同じような機能を持とうとした海外企業は過去にありました。特に1つの巨大な企業がグループ会社として商社を設けるケースが多いのですが、それはなかなか上手くいきづらい。韓国のサムスンがサムスン物産を子会社に持てば、やはりサムスンの商品が中心になってしまいます。我々は専門商社でも集合商社でもなく、総合商社です。

【弘兼】集合商社との違いは?

【小林】集合商社は、いろいろな分野を集めただけで、分野をまたいで横に連携するシナジー効果がない。うまく組織化して、分野を縦横に連携させてきたのは日本人の知恵だったのでしょうね。

【弘兼】総合商社にはそれぞれ得意分野がありますよね。

【小林】各社、経営資源をどこに投入するかという判断が必要になってきます。経営資源とは2つ。お金と人材です。お金はそれなりに都合はつきますが、人材は限りがある。ある分野に人材を投入すると、そこのレベルが上がっていく。成果が上がればさらにお金と人材を投資していくことになる。伊藤忠で言えば、それは生活消費関連分野。緩やかな「選択と集中」を進めるうちに、各社の棲み分けがはっきりしてきたのです。

【弘兼】伊藤忠はいわば、衣食住周辺で、ノウハウを蓄積してきた。

【小林】商社の差別化にはもう1つ要因があります。伊藤忠は約160年の歴史がありますが、そのうちの120〜130年はほかの総合商社と同じような商売をしていました。以前の経営計画を見ると、売り上げの規模はともかく、業務の内訳はどこの商社も同じ。ただ、売上高、利益が大きければ三菱商事、小さければ伊藤忠とわかります(笑)。

■生き残りを懸けた“BtoB”からの変化

【弘兼】重工業は財閥系の三井、三菱、住友が圧倒的に強く、伊藤忠は軽工業を重視していたという差はあっても、ビジネスモデルは似通っていた。

【小林】商社の仕事は長らく“川上”と“川下”を繋ぐ“川中”でした。“川上”には資源や技術などの「供給」があって、“川下”のお客さん、市場の「需要」に繋げる。我々はよく、商社は生まれついての“BtoB”という表現をします。

【弘兼】企業間取引ですか。

【小林】物流、あるいは金融などの役割で需要と供給を繋げていたのです。そのため、川上、川下がどんな業種であっても、問題なかった。ところが、1980年前後に「商社冬の時代」と言われるようになりました。価格競争が厳しくなると、川上や川下からは、なぜそこに商社が必要なのかと疑問視されるようになった。川上から川下にすとんと落ちれば、ハンドリングチャージ(取扱手数料)をなくすことができますから。

【弘兼】いわゆる商社不要論。商社は生き残りのために変わらざるをえなくなった。

【小林】かつて“川上”に手を出すことは、山師と言われるほどのリスクがありました。本来の商社の機能からすると手をつけるのは難しかった。しかし、それを必死で変えました。いわば生まれついての“BtoB”の企業が、川上、そして川下を一気通貫して繋ぎはじめた。いわゆる「バリューチェーン」です。

【弘兼】原材料の調達から製品・サービスが顧客に届くまでを、価値の連鎖としてとらえる考え方ですね。

【小林】そうなると以前、川中でしか取れなかった利益を、川上、川下のどこでも取れるようになります。伊藤忠で言えば、粗利益はBtoBだけだった時代より6、7倍に増えたという実感があります。

【弘兼】当然、組織の人材も増えます。

【小林】以前は伊藤忠単体の約4000人ですべてをやっていました。今はグループ全体で約10万人。そのほとんどが川上か川下にいます。

【弘兼】その中心で伊藤忠がコントロールタワーのような役割をしている。

【小林】ええ。川の水がどう流れているのかをいつも監視。川下からの要望を川上にしっかり伝える。川上で供給がダブつき、日本市場で飽和状態であれば、海外で売ろうなどと考える。バリューチェーン化したことによって、各商社の特徴が出てくるようになった。最近では、取扱分野を見れば、どこの商社か一目瞭然でわかるようになったのです。

■円高の危機を救ったインターネットの登場

【弘兼】小林さんの経歴を見ると、大阪大学工学部卒業。理系から総合商社入社は少々珍しいのでは? どうして商社を選んだのでしょうか。

【小林】大学時代、机の上で数式と向き合っていて、「肌に合わないな、違うな」と感じていました。そんなとき、恩師から商社を勧められました。その教授は偶然にも伊藤忠の創業者、伊藤忠兵衛の家系の方でした。

【弘兼】ご縁ですね。そして72年に入社後、電子機器部に配属。エレクトロニクスや情報関連の素養を生かす仕事に就きました。80年代にはアメリカに赴任。当時は日本の電化製品が世界を席巻していた時代です。

【小林】ええ。アメリカ、欧州に対して日本のハードが強かった。ところが、1ドル230円強だったのが、88年には130円を切ってしまった。製品の値段を上げることはできない。コストカットするにも限界がありますよね。

【弘兼】そして、製造地をコストの安い国に変えていった。

【小林】今も一部の電機メーカーは日本から輸出するという形で上手くやっていると思います。しかし、多くの企業は厳しい。繊維をはじめ、歴史を繙けば、まず日本はアメリカやヨーロッパから製品を買っていた。次に日本で作ったものをアメリカやヨーロッパに持って行くようになった。そのうちに製造コストが厳しくなり、韓国、中国で作って輸出するようになり、さらに厳しくなるとベトナム、タイで作る。繊維で言えば今ではアフリカでも作っています。コストとのバランスを考えれば、製造地が変わっていくのは仕方がないことです。

【弘兼】自然と小林さんの仕事内容も変わっていきますよね。

【小林】80年代半ばから90年代前半までは、日本からの輸出という形で仕事ができましたが、ドルが一時(95年)、80円を切ったことがありました。もう堪忍してよ、と(笑)。

【弘兼】大ピンチです。どうされました?

【小林】丁度、その頃インターネットが普及しはじめた。サーバー、ネットワーク機器といった類の商品が日本で売れるようになった。今度はアメリカの製品やサービスを日本に持って行き、展開するというビジネスを手がけるようになりました。そのほか、アメリカでは投資も手がけた。

【弘兼】どのような投資ですか?

【小林】シリコンバレーで起業したITベンチャー企業への投資です。

【弘兼】シリコンバレーへ行って、そこにいる起業家たちと小林さんがコミュニケーションを取っていた?

【小林】そうです。今でも続けています。投資は国内外を問わず当時からずっと手がけている分野です。

【弘兼】ITベンチャーと言えば、成功すれば大きな利益になりますが、失敗の可能性も高いのでは?

【小林】ITベンチャーの投資は医療薬品などの分野と比較すると、成否の目処がつく期間が短く、投資額も少ない。満塁ホームランはあまりないのですが、内野安打は打ちやすい。我々にとってはやりやすいビジネスでした。

【弘兼】とはいえ、どの企業が伸びるのかという見極めが大切です。

【小林】おっしゃる通り。我々はよく「目利き」と表現をしますが、目利きができる組織であるか、あるいは目利きができる人材を抱えているかが成功確率を上げるポイントです。

【弘兼】小林さんの目利きが上手くいった例をいくつか教えてください。

【小林】たとえば国内の案件ですが99年に投資先のCTC(現・伊藤忠テクノソリューションズ)が上場を果たしたときでしょうか。当時、時価総額が伊藤忠の株価の倍になりました。同年IIJ(インターネットイニシアティブ)が上場したときも、それこそ何百倍にまで時価総額が膨れ上がりました。当時はそういうケースが本当にたくさんありました。そこから2001年頃にITバブルが弾けるのですが。

【弘兼】そうでした。

【小林】でも、今はまたIT分野が盛り上がってきています。AIとかIoTの進化が目覚ましいので、チャンスだと思います。

【弘兼】目利きには小林さんが理系出身ということも助けになっていた?

【小林】いえ、私がというより、目利きができる組織と人材を背後に抱えていたということです。アメリカには数十社の協力企業がありましたし、日本でもすでにグループでは5000人ほどのITビジネス部隊がいて、IT技術を使って日本企業にどのような提案ができるだろうという発想で考えてくれた。

■ファミマ、ローソン、セブン以外という選択

【弘兼】ファミリーマートと言えば、「ユニー・ファミリーマートグループ」の筆頭株主は伊藤忠です。今年、三菱商事もローソンを子会社化しました。商社とコンビニは一見、結びつきません。

【小林】我々商社の商売の基本は、社会に貢献する、あるいは生活をもっと便利にしようとすることです。その意味でコンビニは非常に重要な位置づけになる。なぜならば、現在はコンビニですべて解決できる。ライフラインの中心になっているんです。商品を買うのはもちろん、宅配便の申し込み、税金の支払いもできます。24時間営業なので何かあれば逃げ込めるという防犯の役割もある。

【弘兼】かつて小売りと言えばスーパーマーケットでした。現在は、日本の社会構造が変化し、一人世帯が増えています。そのライフスタイルにコンビニはマッチしています。

【小林】一人世帯に対応できるような商品ライン、店作りになっています。また、飲食するスペースを設置している店も増えています。それによりコミュニティセンターのようになっているところもあります。

【弘兼】コンビニを含めると、商社の仕事は無限にあるように思えます。ただ、手がける範囲が広がると、問題も出やすくなる。小林さんもおっしゃったように、商社で大切なのは人材。採用や育成をどう考えていますか?

【小林】そこはいつも悩むところです。日本の学生の就職活動は、大多数の人にとっては「就職」ではなく「就社」を意味します。だから長期的観点で育成することになる。最初の5年から7年程度は、社会人、商社パーソンとしてのイロハを徹底的に教える。そして英語だけでなく中国語など第2外国語を習得する。そのうえで20年程度は、その道の専門家として育て上げる時間に費やす。

【弘兼】商社は海外勤務が多いというイメージですが、近年の大学生は海外に興味を示さないとも聞きます。日本全体が内向きなんですかね。

【小林】それだけ日本が住みやすいとも言えます。日本という国は明治維新以降、ヒト、モノ、カネを移動させて成長してきました。それは今後も変わらないでしょう。

【弘兼】ヒト、モノ、カネの移動と言えば、現在、日本を含めた先進国は人口が減少しています。ただ、地球全体では人口が増えている。

【小林】もはや日本市場だけではダメ。これは、ビジネスチャンスでもあります。たとえば日本に大手コンビニチェーンは3つしかありません。すでにどこも商社が関係しています。ただ、世界に目を向けると、いくらでも提携、協力できるコンビニはあります。だから、我々の市場は、日本の人口1億2700万人ではなく、世界の人口の73億人なのです。この73億人が百数十億人になっていく。そしてみんな、自分の生活を豊かにしたいと考える。それには様々な商品やサービスが必要になってくるのです。

【弘兼】需要が生まれ、供給の必要性が出てくる。ただ、情報技術の発達もあって、地球がより小さく、そして壊れやすくなった気がしています。

【小林】はい。20世紀は、ヨーロッパの景気が悪いなと言っていると、2、3カ月後にアメリカの景気が悪くなる。それから半年後ぐらいに日本やアジアの景気が悪くなっているというスピード感でした。その頃にはヨーロッパは持ち直していました。

【弘兼】ところが今はリーマンショックのように全世界で一気に経済が動く。

【小林】そうです。「何かおかしいぞ」という情報が即座に世界中に回ってしまいます。すると、大袈裟に言えば、高速道路でみんなが自動車のブレーキを踏んだような状態になってしまう。いっぺんに停まるとリスタートにすごくエネルギーがいります。変化のスピードが速く、振れ幅が大きい。そして全産業に影響が及ぶ。そうした動きに対抗できる経験と組織力を一番持っているのは総合商社だと思います。我々は全世界にネットワークを持っていますから。

■コラム:弘兼憲史の着眼点

▼15年周期の危機を乗り越えた“コミュ力”

小林さんの話を伺っていて頭に浮かんだのは、「適者生存」という言葉でした。

1980年前後、円高などの影響を受け「商社冬の時代」が訪れ、商社不要論が叫ばれるようになった。そこでアメーバのように姿を変えて生き残ってきたのが現在の総合商社です。ただ、財閥系の総合商社と違い、後ろ盾のない伊藤忠は元来逞しかったと言います。

「我々はいつもガツガツしていました。伊藤忠の人間が通った後にはぺんぺん草も生えていないと言われた時期もあった。生き残るためにリスクのある商売をしなければならなかったのです」

15年周期で会社の危機が起きていました、と小林さんは朗らかに笑いました。対談中、「商社マン」に必要な資質を尋ねると、こんな言葉が返ってきました。

「我々の業界は自分一人では何もできない。みんなで隊列を組んで方向性を決めて、さあ行くぞというプロセスが必要なんです。商社マンはみんなと仲良くやらなければなりません」

為替の変動、商社の危機を乗り越えてきたのは、このコミュニケーション力ではないかと強く感じたのでした。

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弘兼憲史(ひろかね・けんし)
1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部を卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)勤務を経て、74年に『風薫る』で漫画家デビュー。85年『人間交差点』で第30回小学館漫画賞、91年『課長島耕作』で第15回講談社漫画賞、2003年『黄昏流星群』で日本漫画家協会賞大賞を受賞。07年紫綬褒章受章。

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(漫画家 弘兼 憲史、日本貿易会/伊藤忠商事 会長 小林 栄三 構成=田崎健太 撮影=大槻純一)