写真はイメージです

写真拡大 (全2枚)

医師になって40年。そのうち20年以上を在宅医療に力を入れてきた、在宅看取り医の千場純さん。患者さんにはさまざまな人生があり、命のとじ方があります。千場さんが看取りの現場に立ち会い、心に残っているのが「最後まで思い出の家で暮らした、永遠のイケメン」享年81歳の男性のお話。そのご本人に語りかける形で紹介してもらいました。

 ご家族の希望で本当の病名は伏せられたまま、自宅療養をはじめた方がいました。やがて真実を知ることになりましたが、勇敢にも最期まで自宅にいることを決心しました。そんな患者さんのお話です。

この記事のすべての写真を見る

心筋梗塞がきっかけで見つかった胃がん

 最初の入院理由は心筋梗塞でした。幸いにも軽症で、カテーテル治療が成功し一件落着ーーと思ったら貧血が進行していました。その原因を調べるための胃カメラで、今度は胃がんが見つかりました。すでに進行しており、心筋梗塞の直後でもありましたから手術もできませんでした。輸血後には両側の胸水貯留をともなって心不全を併発して、2か月近い入院期間となっていました。

 胃の入り口あたりの腫瘍は、その間しだいに大きく育って、ろくに食べることもできないまま、娘さんのご意向で胃がんであることは説明されることもなく、「いずれ食べられるようになるまでーー」との説明を受けて中心静脈栄養(IVH)カテーテルを挿入されました。

 その後さらに1か月が過ぎたころ、あなたは家に帰りたいと切望されました。

 奥さんはすでに13年前に他界していて、ずっとひとり暮らしでしたから、退院後は近所に住む二人の娘さんが、通いで生活を支援してくれることになっていました。

 しかし、キーパーソンの長女は、折悪しく夫の進行性大腸がんをも看病しなければならない状況になっていました。未婚の次女は仕事を持っていて、とうていあなたのひとり暮らしの手助けをする時間をとれる状態ではありませんでした。

 それでもあなたの退院が決まり、病院からは私のほうにその後の在宅診療依頼がありました。「退院前カンファレンス」を行い、ようやく自宅に帰ったころには桜の季節もすっかり過ぎ去っていました。

希望していた自宅療養がはじまった

 介護用の重いベッドできしむ、たいそう古びた床板のしなりを気にしながら、初回訪問の数歩をすすめると、玄関の土間からすぐの部屋に、あなたのベッドは置かれていました。初対面の私たちの無遠慮な笑顔に、あなたはちょっととまどったような表情ではにかんでくれましたが、どことなく気分がすぐれない表情でした。

 右の鎖骨下から痛々しく挿入されたIVHカテーテルを皮膚に固定する縫合糸は、初夏とはいえ、すでに蒸し暑い室内、汗ばんだ肌の上で緩みかかっていました。そして、あなたの枕元には、心配そうにたたずむ長女の姿がありました。

 車で15分くらい離れたところに住む彼女は、自らの夫の看病も抱える先行きの不安に負けまいとするかのように、気丈な明るい声であなたの退院後の様子を詳しく話してくれました。

 とにかく、わずかばかりの口からの流動食と、IVHからの1日1000キロカロリーの栄養補給を頼りに、あなたはこれからこの状態で(本人には知らされていない胃がんの進行による限界まで)、おそらくは半年ぐらいのひとり暮らしをする見込みでした。

いつの間にか「イケメン」の称号が

 それから、2週間ごとの私たちの訪問診療がはじまりました。

 数か月使うことがなかった足の筋肉はすっかり衰えているにもかかわらず、あなたは「そのうち歩けるようになるーー」と信じて疑わなかったし、にこやかに過ごす日も多く、一時はなぜか「カレーうどんを食べたい」との思いを強くあらわすまでに気力は回復していきました。

 そうこうするうちに、訪問診療に付き添うわが診療所の3名の熟年看護師は口々に、あなたの年功の気迫で凛々しく整った顔立ちともの静かさを高く評価しはじめ、あっという間にフアンになってしまいました。

 齢80歳を超えたとは思えない顔貌には、いつの間にか「イケメン」の呼称が授けられていたのをあなたは知らなかったでしょうネ。それはあなたが若くして奥様を亡くされたあと、再婚もせずに二人の娘さんを育て上げた功績に対する、彼女たちからの称賛と敬意を合わせたものでもありました。

病気の真実

 そんな穏やかで満ち足りた日々がようやくはじまりかけたと思ったら、長年パン職人として働きづめだった若いころからの無理がたたってか、左足の強い痛みとしびれ(坐骨神経痛)に苛まれるようになり、さらに両膝は少し曲がりだし、しだいに関節の動く範囲が狭くなる「拘縮」がはじまりました。

 それは最新の鎮痛剤の処方と訪問マッサージ導入の効果が出はじめたころのことでした。

 実は、後日わかったことですが、訪問マッサージ師が施療の途中でなにげなくうっかり、「胃がんの手術はいつだったんですか?」と聞いてしまったのです。

 あなたが急に元気をなくしたのは、きっとそのせいだったのでしょう。そればかりでなくそれからあなたは、長女の夫が病状悪化したためにやむを得ずレスパイト入院(*1)したり、心不全の再発、そして退院直後に併発した肺炎で緊急再入院するなど、まぎれもない下り坂に突きすすまされていく毎日を強いられたのです。

 さらには、ふいに起こる激しいめまいや、顔をしかめるほどの右わき腹の痛みなど、かれこれ2か月間の険しい試練の在宅療養の日々を過ごすことになりました。

 そんな状況を見かねて、私は今さらながら病気の真実を本人に説明すべきだ、と長女さんに提案し、その同意と同席のもとで「悪い知らせ」を告げました。

 あなたはさしたる表情の変化も見せずに、それを聞いていましたねーー。

 そのうえで、痛みに対する積極的な麻薬の使用と緩和に向けて、点滴投与量の制限(=ドライアップ*2)ならびに、患者さんへの傾聴(*3)を強化するなど、治療方針の変更を行いました。

最期まで「わが家で」

 右わき腹の痛みは幸い速やかに緩和されたものの、やがてくり返す発熱と喀痰があなたを苛みはじめ、ステロイドや在宅酸素療法を導入しても呼吸困難はあまり緩和されず、息苦しさにあえぎながら過ごす日々が続きました。

 その一方では、体の表面からもそれとわかるほどに、右わき腹の腫瘤、つまり生育しつづけた胃がんの塊が大きくなっていました。そのときはさすがのあなたからも「入院させてくれ!」と嘆願されたほどでしたから、どんなに辛かったことでしょうか。

 それでもあなたは結局、入院を選択せず、あえて最期までわが家にいる決心をかえませんでした。

にぎやかなお別れ

 私たちの精一杯の緩和医療の取り組みの中、やがて意識が混濁しはじめて数日のちの夜、11時過ぎに、娘さんやお孫さんたちが見守る中で静かにあなたは“そのとき”を迎えました。そしてなんとその瞬間、生前あれほど若々しかった風貌は、年相応の老人の顔貌にすっかりかわっていました。

 それから小一時間ほど、娘さんと看護師さんたちはたいそうにぎやかに、あなたが好んだであろう数々のおしゃれ着の中からベストチョイスを着付けようと盛り上がっていました。やがて着がえが完成し、そこにはかつてのお洒落なあなたが再現したのです。

 そして、そんなあなたが横たわる頭越しに見る先の壁に飾られているのは、すっかりセピア色になった写真1枚。おそらくはこの部屋で写されたであろう、裸電球の逆光照明に映る若かりしころのあなたと奥様のツーショット。

 かつての日活映画の俳優のような面立ちのあなたの優しく凛々しい笑顔が、左わきに寄り添う奥様と仲睦まじくモノクロームに輝き、そして、そこからふと、もとに目を転じれば、そこには見事に年老いてお役目を終えたあなたの穏やかな、81歳のお顔が重なるのでした。

看取り医のひとりごと
 容貌ばかりでなく、男らしく無口で我慢強かったあなた。かれこれ1年もの長期間、1日のほとんどをひとりで、それも点滴につながれながらご自宅での療養を見事に成し遂げましたね。深刻な病状を説明されぬままに幾多の悪化と進行の中で、シッカリとご自分の最期を最愛の奥様の遺影の前で過ごされ、そして、最後までイケメンのままで奥様のもとに旅立ったあなたへ贈る言葉は、お悔やみであるよりも、祝福であるべきかもしれません。
 奥様によろしくーー。

*1 レスパイト入院/在宅療養の介護者負担が大きくなるとき、介護者の元気付けや気分転換のために行う短期間の入院。患者は一時的にせよ、入院を強いられることになるが、在宅ではできない諸検査や治療を行う意味もあって有用。

*2 ドライアップ/終末期となって、与えられる水分や栄養を使えない状態となった際に行う栄養や水分の制限。その結果、長く生きることはできなくても、自然に苦痛なく最期を迎えられると考えられる。

*3 傾聴/苦悩を持つ方の言葉に心を込めて耳を傾け、相手を理解しようとする技法。このことにより、患者は自分の心の中にストレスをためずにすみ、気が鎮まる効能がある。

千場純(ちば・じゅん)◎社会福祉法人心の会 三輪医院院長。2025年問題を見据えて、在宅死率全国1位の神奈川県横須賀市で「在宅看取り」の普及に取り組む。地域住民と多職種が自由に集まる、くらしのリエゾンステーション「しろいにじの家」を開設。多くのイベントを通じて、住み慣れた家で安らかに最期を迎える「看取りの形」を考える。