カネカ社長 角倉 護

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■信頼関係第一に地球8周分を巡る

世紀が変わるころの約3年間、毎月のように、拠点としていた兵庫県・高砂から米国へ出かけた。1998年秋に6年半に及ぶベルギー勤務から帰国し、高砂の合成樹脂研究センターで、合成樹脂の強化剤や改質剤の開発を指揮していた。40代を迎えた時期だ。

テキサス州ヒューストンにある子会社から「新製品をやりたい」との話がきていた。狙うは、アクリル樹脂向けの強化剤。強度と透明性が要求される車の尾灯用樹脂や、サイディングと呼ぶ住宅の外壁に張り付ける板材用の樹脂向けに、有望だった。アクリルは日本の化学業界でも戦略分野とされ、鐘淵化学工業(現・カネカ)も強化剤の開発に力を入れた。ただ、難問が多く、帰国したときには、まだ物になっていない。

米国へいって、子会社に開発や生産の技術を教えたのではない。日本でサンプルをつくり、米国の樹脂メーカーや自動車会社、建材会社を回って、技術的な優位性を説いて売り込んだ。ヒューストンの子会社にも寄り、「大丈夫だ、やろう」と鼓舞を重ねる。

無論、簡単に買ってはもらえない。だから、何度も、何度も通う。売り込み話ではなく、相手が興味を持つ話題を携え、食事をともにもした。「商売以前に、信頼関係が大事だ」との信念は、英独を駆け巡ったベルギー勤務で、胸に沁み込んでいた。だから、駆け引きのようなことは、控えた。

やがて、テストで使ってみてくれる会社が、増えていく。説明と照らして有効性を納得してもらえば、生産への共同開発に入る。この間、たまった航空会社のマイレージは、20万マイルに達した。地球を8周分も飛んだことになる。

米国出張と企業巡りは、そこで終わらない。次は、金属の接着剤にも使われるエポキシ樹脂に、より強い接着力をもたらす改質剤。いまでこそ接着剤の代表的メーカーのセメダインを傘下に入れているが、当時は手薄な分野で、社内には反対があった。でも、進出をもちかけてきた米国子会社に「いいではないか、やってみろ」と認め、また、米企業巡りに入る。

新分野の開発には、費用も時間もかかり、人も割く必要がある。でも、新しいネタを持ち込まれたら、「やってみろ」と答えてきた。挑戦が大好きな性格もあるが、京大の博士課程で指導してくれたのが、何でも「やってみろ」と言う教授だった影響も受けていた。

ベルギー時代には、同国の代表的な大学と、共同研究も進めた。希望していた海外勤務を後押ししてくれた高砂の研究所長が、ベルギー工場の幹部の大半が同大学出身と知り、促した。テーマは、ビニール管などで起こる塩ビ樹脂が割れる際の構造分析。途中で引き継いだ後輩が、社内で「そんなの分かり切っているから、やめろ」と言われたと嘆いたが、続けさせる。すると、それまで社内で信じられていた説とは違う事実がわかり、新たな工法も生まれた。

その後輩が、ヒューストンに赴任し、地元の大学とエポキシ樹脂向けの改質剤を共同研究した。日本では自動車メーカーなどが鉄板をつなぐとき、ほとんどは溶接だが、欧米では接着が多い。溶接は点と点でつなぐが、接着は面と面でくっつくので、ねじりや曲げへの耐性などが高い。ただ、耐熱性に優れたエポキシ樹脂も、樹脂自体が硬く、接着剤の層が割れることがあるのが、難点だった。

共同研究が生んだ改質剤は、エポキシ樹脂ときれいに混ざり、はるかに割れにくくなった。数年後、高砂に工場をつくり、米国への出荷を始めた。この改質剤が入った樹脂は、航空機などに使われる炭素繊維の複合材にも利用されている。炭素繊維と樹脂を幾層も貼り合わせ、耐熱性を損なわないまま、高い強靭性や耐久性、さらには軽量化も実現した。最近は、風力発電でも、数十メートルに及ぶ羽根を貼り合わせる際に活躍中だ。大きな事業になるのは確実で、2つ目の工場を海外につくることが、視野にある。

このときの米企業巡りでは、西海岸に多い飛行機産業も訪ねた。当然、商売っ気は脇に置き、信頼関係の構築から始めた。最近の若い人にも言っているが、何か商品を開発し、その評価データがよければ売れると思っているけど、そうではない。米国でも独英でも、決め手は日本と同じで、「この人が言うのなら、もう一度だけ、テストをしてあげよう」と思ってもらえる人間関係だ。

だから、社長になるまで、暮れに1週間、「クリスマスツアー」と称して米国へいき、主なお客を回ってパーティーを重ねた。購買部門や工場、研究開発などいろいろ人を招いた。

「爲者敗之、執者失之」( 爲す者は之を敗り、執る者は之を失う)──何か下心を持って動けば失敗を招き、何か意図を持って手に入れようとすれば、反対に取られてしまう、といった意味だ。中国の古典『老子』にある言葉で、何事も、企みを持って動くことを戒めている。ただ売らんかなで相手に近づくのではなく、心と心を開き合い、互いに信頼し合えるようになることを第一に行動する角倉流は、この教えと重なる。

■博士号合格時には決めていた就職

1959年6月、大阪市生野区で生まれる。父がケーキ屋を立ち上げたばかりで、両親が忙しく、小学校に入るまで兵庫県姫路市の父の実家で育つ。妹が2人で、順番に姫路へきて、それぞれ小学校に入る前に大阪へ戻った。中学時代は野球部で、府立住吉高校では1年だけ柔道部。友人が「1人で練習をみにいくのは心細い。付いてきてくれ」と言うのでいったら、「お前も入れ」とつかまった。

同志社大学工学部の工業化学科へ進み、卒業後は就職するつもりだったが、納得する仕事がみつからず、大学院へいく。担当教授が京大で博士号を取っていた縁で、京大の博士後期課程に入ったが、学位論文が審査を通った87年3月下旬には、就職を決めていた。

同4月に鐘淵化学工業に入社、高砂の合成樹脂研究所に配属された。会社案内にベルギーでの仕事が紹介されていて、面白そうだと思い、2年に1度の自己申告書に「海外勤務希望。ベルギー」と書く。すると、課長に呼ばれて「ダメだ。きみはドクターで入ったのだから、一生、研究所だ」と言われた。でも、その後にきた新所長が米国留学の経験を持ち、「ぜひいきなさい」と認めてくれた。

2014年4月、54歳で社長に就任。カネカは、1949年に鐘淵紡績(旧カネボウ)の非繊維部門が独立し、翌年に塩ビ樹脂の量産を始め、53年にマーガリンに加えるショートニングを本格生産し、化成品と食品事業の源流となる。いま、それに加え、強化剤などの機能性樹脂、発泡樹脂、かつら用合成繊維材料、電子材料、医療器、ライフサイエンス、太陽熱利用の9事業分野を持つ。

社長になって、社内報に事業拡大へ決意を表明した後、こう書いた。「市場開発をするうえで、製品スペックだけでは、顧客が採用・購入する理由になりにくい。儀礼的な会社同士の付き合いだけでなく、人・技術の信頼関係が重要だ」。常に信頼関係第一で、「爲者敗之」であることを、社員たちに確認したかった。このとき、取締役のなかで、最年少だった。

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カネカ社長 角倉 護(かどくら・まもる)
1959年、大阪府生まれ。87年京都大学大学院工学研究科博士後期課程修了、鐘淵化学工業(現カネカ)入社。2009年高機能性樹脂事業部長、10年執行役員、12年取締役常務執行役員。14年より現職。

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(経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥)