SB大道典良コーチ、亡き戦友の墓前で涙「天国から見ていて」
テレビ東京「プロ野球遺産認定会議2015」(24日放送分)では、「ホークス大道コーチ 亡き親友との友情」と題し、ソフトバンク・大道典良打撃コーチをフィーチャーした。
1987年ドラフト4位で南海ホークスに入団、以後19年もの間チームを支えたが、2006年に戦力外通告を受けると無償トレードで巨人へ。バットを短く持ち泥臭くボールに喰らい付く打撃スタイルで代打の切り札となった。
番組のカメラに対し、「巨人ではいない泥臭さというか、巨人にはいないタイプということでウケたのかもしれません」と振り返った大道氏だったが、この時すでにキャリアは晩年に。それでも一人の戦友の存在がその後の野球人生を変えることになった。2006年、巨人に移籍してきた故・木村拓也氏である。
「(木村氏と)監督室に呼ばれて肩を組まれて、原監督に。今でも忘れません。監督の部屋で“今年一年頑張ろう”と。開幕前ですから。“お前らは2人で1人な”と。そういう役割だからと」。こう明かした大道氏は、木村氏とともにチームを陰で支え、2008年6月交流戦優勝を懸けたソフトバンク戦では2人揃ってお立ち台にも上がっている。
だが、木村氏はコーチに就任した2010年4月、試合前に倒れ帰らぬ人となった。
「倒れる1ヵ月前ですかね。本当に顔色が悪くて“ちょっとおかしいんじゃないか”と言ったんですけど、(木村氏は)初めてのコーチで1軍ということで“色々気を遣ってるんですよ、大道さん”という。あの時、もう少し強く病院に行けよと言っておけばっていうのは今でも後悔の念があります」。
この時の様子を語った大道氏は「全く練習も試合も身に入らなくて本当にどうしようかなと思った」とも。それでも、「なにかキムタクが“大道さんもっと頑張って下さいよ”という声がしているようで。そこで奮い立って頑張った」と前を向いたと話すも、この年、現役生活に別れを告げた。
引退後は「タクのようにコーチになりたい」とコーチを目指した大道氏は、2013年から古巣・ソフトバンクに復帰すると今季の日本一にも貢献した。
すると、今月(コーチとして)日本一になるまで木村氏に会わないと決めていたという大道氏は彼の墓前へ。「“大道さん”という声が聞こえてきそうでね」と言い、涙を流すと「彼のようなコーチになりたくて、この5年間頑張ってきた」と言葉を絞り出し、涙を拭いながら「天国から見ていて下さい」と戦友に語りかけた。
1987年ドラフト4位で南海ホークスに入団、以後19年もの間チームを支えたが、2006年に戦力外通告を受けると無償トレードで巨人へ。バットを短く持ち泥臭くボールに喰らい付く打撃スタイルで代打の切り札となった。
「(木村氏と)監督室に呼ばれて肩を組まれて、原監督に。今でも忘れません。監督の部屋で“今年一年頑張ろう”と。開幕前ですから。“お前らは2人で1人な”と。そういう役割だからと」。こう明かした大道氏は、木村氏とともにチームを陰で支え、2008年6月交流戦優勝を懸けたソフトバンク戦では2人揃ってお立ち台にも上がっている。
だが、木村氏はコーチに就任した2010年4月、試合前に倒れ帰らぬ人となった。
「倒れる1ヵ月前ですかね。本当に顔色が悪くて“ちょっとおかしいんじゃないか”と言ったんですけど、(木村氏は)初めてのコーチで1軍ということで“色々気を遣ってるんですよ、大道さん”という。あの時、もう少し強く病院に行けよと言っておけばっていうのは今でも後悔の念があります」。
この時の様子を語った大道氏は「全く練習も試合も身に入らなくて本当にどうしようかなと思った」とも。それでも、「なにかキムタクが“大道さんもっと頑張って下さいよ”という声がしているようで。そこで奮い立って頑張った」と前を向いたと話すも、この年、現役生活に別れを告げた。
引退後は「タクのようにコーチになりたい」とコーチを目指した大道氏は、2013年から古巣・ソフトバンクに復帰すると今季の日本一にも貢献した。
すると、今月(コーチとして)日本一になるまで木村氏に会わないと決めていたという大道氏は彼の墓前へ。「“大道さん”という声が聞こえてきそうでね」と言い、涙を流すと「彼のようなコーチになりたくて、この5年間頑張ってきた」と言葉を絞り出し、涙を拭いながら「天国から見ていて下さい」と戦友に語りかけた。