[特集]オウムの幻影を追って(1)
1995年3月20日午前8時すぎ、都内の5本の地下鉄車内に猛毒のサリンが撒(ま)かれ、通勤ラッシュを直撃。通勤客、駅員など12人が死亡、約5500人に重軽傷を負わせた「地下鉄サリン事件」。今週末、それから10年を迎える。オウム真理教をめぐる一連の事件で、マスコミを賑わせ、人々を震撼させた「現場」はどうなったのか、訪ねてみた。(特集・全3回)
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来年3月、「上九一色村」の名が消える
「オウム?あれで村の名前が有名になったことはあったけど、もう終わったこと」。山梨県西八代郡上九一色村の村議の一人は話した。村議会は16日、村北部が甲府市、南部が富士河口湖町にそれぞれ分割・合併されることを決議した。来年3月1日には、「上九一色村」の名が消えることになる。
オウム真理教は、1990年に上九一色村に進出、村南部の富士ヶ嶺(ふじがね)地区に12の教団施設を次々と建設した。96年の完全撤退まで、富士山ろくにある人口1700人余りの小さな村は揺れた。
「当初、松本智津夫(教祖「麻原彰晃」の実名)という男がなぜあんな荒地を買収したのか分からなかった」。村北部にある役場近くに住む橘田彰二さん(76)はオウムが村に進出した当時をこう振り返る。10年前、オウムの騒動を受けて、村は空席が続いた助役を急きょ設置。橘田さんは助役に担ぎ出され、オウム対策に奔走した。
あれから10年・・・。「すでに忘れ去ろうとしている記憶。オウムのことは、裁判の記事が出たときに、思い出すくらいだ」と橘田さんは語る。
「サティアン」群は跡形もなく
南北20キロに細長い上九一色村。村役場から峠を越え、精進湖と本栖湖を巡ると、目の前に富士山が現れる。富士のすそ野に広がる標高500メートルの高原にオウムは、1995年時点で約4万8000平方メートルもの土地を所有していた。敷地内には、工場や倉庫のような施設を建設。12の施設には建てた順に「第1サティアン(真理)」、「第2サティアン」・・・、敷地には購入順に「第1上九」「第2上九」・・・と名前をつけた。
オウムの撤退後、97年春から1年半かけて施設を解体・撤去し、残された土地はすべて村が買い取った。畜産農家が点在する高原には、かつてオウムがいた跡形は何もない。かつて第2・第3・第5の3棟「サティアン」群があった「第1上九」跡に、村はベンチと水飲み場を整備、慰霊碑を立てた。「慰霊碑」とだけ刻まれた石がかつてここでおきた犠牲を物語っている。教団から家族を取り戻そうとした落田耕太郎さん(当時29歳)や仮谷清志さん(同68歳)らは、教団幹部によって監禁、殺害された。
「いい思い出ではない」
「当時は、本当に困りましたよ」。慰霊碑の立つ空き地の向かい側で酪農を営む男性は、牛を手入れする手を休めて、こう語った。スピーカーから24時間響く「マントラ(お経)」、昼夜を問わずドリルを使い続ける土木作業、木刀を持って立つ守衛、家に逃げ込んでくる信者・・・。オウムの進出で、平穏な暮らしは一変した。繰り返されるオウムの迷惑行為に困り果て、警察に通報することも度々あったが、事態は変わらなかった。
慰霊碑には、今でもときどき手を合わせる人が訪れるという。当時を振り返りますかと、尋ねてみると、「いい思い出ではないので、別に思い出さない」と男性は答えて、苦笑いした。(つづく)
[特集]オウムの幻影を追って(2)青山総本部と秋葉原マハーポーシャ
[特集]オウムの幻影を追って(最終回)東京メトロ・霞ヶ関駅
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来年3月、「上九一色村」の名が消える
オウム事件を振り返る元助役の橘田さん(撮影:小田光康) 画像をクリックすると拡大します |
オウム真理教は、1990年に上九一色村に進出、村南部の富士ヶ嶺(ふじがね)地区に12の教団施設を次々と建設した。96年の完全撤退まで、富士山ろくにある人口1700人余りの小さな村は揺れた。
「当初、松本智津夫(教祖「麻原彰晃」の実名)という男がなぜあんな荒地を買収したのか分からなかった」。村北部にある役場近くに住む橘田彰二さん(76)はオウムが村に進出した当時をこう振り返る。10年前、オウムの騒動を受けて、村は空席が続いた助役を急きょ設置。橘田さんは助役に担ぎ出され、オウム対策に奔走した。
あれから10年・・・。「すでに忘れ去ろうとしている記憶。オウムのことは、裁判の記事が出たときに、思い出すくらいだ」と橘田さんは語る。
「サティアン」群は跡形もなく
「サティアン」跡から富士を望む慰霊碑(撮影:常井健一) 画像をクリックすると拡大します |
オウムの撤退後、97年春から1年半かけて施設を解体・撤去し、残された土地はすべて村が買い取った。畜産農家が点在する高原には、かつてオウムがいた跡形は何もない。かつて第2・第3・第5の3棟「サティアン」群があった「第1上九」跡に、村はベンチと水飲み場を整備、慰霊碑を立てた。「慰霊碑」とだけ刻まれた石がかつてここでおきた犠牲を物語っている。教団から家族を取り戻そうとした落田耕太郎さん(当時29歳)や仮谷清志さん(同68歳)らは、教団幹部によって監禁、殺害された。
「いい思い出ではない」
「当時は、本当に困りましたよ」。慰霊碑の立つ空き地の向かい側で酪農を営む男性は、牛を手入れする手を休めて、こう語った。スピーカーから24時間響く「マントラ(お経)」、昼夜を問わずドリルを使い続ける土木作業、木刀を持って立つ守衛、家に逃げ込んでくる信者・・・。オウムの進出で、平穏な暮らしは一変した。繰り返されるオウムの迷惑行為に困り果て、警察に通報することも度々あったが、事態は変わらなかった。
慰霊碑には、今でもときどき手を合わせる人が訪れるという。当時を振り返りますかと、尋ねてみると、「いい思い出ではないので、別に思い出さない」と男性は答えて、苦笑いした。(つづく)
[特集]オウムの幻影を追って(2)青山総本部と秋葉原マハーポーシャ
[特集]オウムの幻影を追って(最終回)東京メトロ・霞ヶ関駅