サッカージャーナル編集部です。先週のアトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」に引き続き、元川悦子氏によるオリンピック過去3大会の振り返りコラムを掲載いたします。今週は、シドニー五輪についてのプレイバックです。

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◆赤鬼・トルシエと若きタレント集団との格闘。〜シドニー五輪代表立ち上げからワールドユース準優勝、1次予選突破まで〜

 1996年アトランタから2012年ロンドンまで5大会連続で五輪出場を果たした日本サッカー界だが、過去4回で1次リーグを突破したのは1回しかない。中田英寿(当時ローマ)、柳沢敦(当時鹿島)、中村俊輔(横浜FM)、宮本恒靖・稲本潤一(ともに当時G大阪)ら傑出した才能がズラリとそろった2000年シドニー五輪代表である。

 このタレント軍団は、2002年日韓W杯を率いたフランス人のフィリップ・トルシエ監督が1から積み上げたチームだった。トルシエは軍事教練のような練習を課したり、選手を怒鳴りつけるなど、植民地主義者のような振る舞いをする「奇人」であった。しかし、ユース→五輪→A代表と順序立ててチームを作る手腕には長けていた。シドニー五輪本大会の代表も楢崎正剛(名古屋)、森岡隆三(当時清水)、三浦淳宏(当時横浜FM)というオーバーエージ3人を加えた「事実上のA代表」。指揮官が狙ったメダルは取れなかったが、その成果は翌月の2000年アジアカップ(レバノン)で優勝という形になって表れた。下から土台をしっかり作ることの重要性を彼は示したのである。

 とはいえ、トルシエのチーム作りは波乱含みのスタートだった。そもそも彼は欧州で目立った実績がない。アフリカでは「白い呪術師」と呼ばれたものの、手腕が未知数なのは確か。そんなフランス人にいきなり「規則」と「規律」を強要され、「フラット3」という未体験のシステムを叩き込まれた選手たちは驚きと戸惑いを隠せなかった。

 そんなやり方をされれば、反発が起きて当然だ。いきなり不穏な空気が流れたのが、最初の国際大会となった1998年アジア大会(タイ・バンコク)だ。韓国、クウェートなど強豪ぞろいだった2次リーグで敗れたこともあり、本職のトップ下ではなく左サイドに回された中村俊輔が不満を露にした。さらに1998年フランスW杯出場経験のある小野伸二(当時浦和)も意味不明の途中交代を繰り返され「これまで自分がやってきたサッカーを削り取られる気がする」と爆弾発言。選手たちの指揮官への不信感は一気に高まった。

 このトルシエが1999年4月のワールドユース(ナイジェリア)を目指していたユース代表監督を兼務するすることが決まったのだから、小野や高原直泰(当時磐田)らの戸惑いは容易に想像できる。そんな選手たちの感情などお構いなしに、トルシエは自分流を推し進めていく。1998年秋のアジアユース(タイ・チェンマイ)ではボランチで活躍した酒井友之(当時市原)を右アウトサイド、攻撃的MFだった本山雅志(鹿島)を左アウトサイドへコンバートしたのを皮切りに、大胆な選手起用を次々と見せたのだ。ボランチが本職の中田浩二(鹿島)を左ストッパーに据え、アジアユースではBチーム扱いだった小笠原満男(鹿島)と遠藤保仁(当時京都)をレギュラーに抜擢するなど、斬新な采配にはみなビックリさせられた。