世界中で優れた数学者や物理学者の獲得競争が展開されています(写真:ismagilov/iStock)

いま世界では、AI、ビッグデータ、IoT、ロボットといった革新的なデジタル製品・サービス・システムが経済社会を大きく変革しつつある。いわゆる「第4次産業革命」だ。
この「第4次産業革命」の時代に求められるのは、どのような人材か。そして、その人材を育成するには、どうしたらよいか。
『富国と強兵 地政経済学序説』で、「国家とイノベーション」を論じた中野剛志氏が解説する。

加賀市の「STEAM」教育

世界各国そして日本各地で、新たな人材育成に向けた模索が始まっている。そのような中、ユニークな取り組みで注目を集めている地方自治体がある。石川県加賀市である。


加賀市は、Science(科学)、Technology(技術)、Engineering(工学)、Art(芸術)、Mathematics(数学)の頭文字をとった「STEAM」教育の充実を掲げ、これまでも、小中学校におけるプログラミング教育の実施、ロボット・プログラミング教育の国際大会「RoboRAVE」の開催、さらには日本初のコンピュータ・クラブハウスの開設など、先進的な取組を次々と打ち出し、地方自治体におけるIT人材育成の先頭を走ってきた。

その加賀市が、また新たな一手を打ち出そうとしているという話を耳にした。

2019年度の夏休み期間中に、課外授業の一環として、数学の魅力を体験することを目的とした「数理女子ワークショップ」の開催を企画しているというのだ。対象となるのは、加賀市内の小中学生(男女)およびその保護者である。この企画が実現すれば、同ワークショップが初めて東京大学外で開催されることになる。

プログラミング教育など新しい教育に力を入れてきた加賀市が、なぜ、今度は「数学」教育に目をつけたのであろうか。

その答えは、文部科学省と経済産業省の研究会が発表した報告書(以下「報告書」)の中にある(なお、本報告書の作成には筆者も関与しているが、本稿は筆者個人の見解である)。

タイトルは、『数理資本主義の時代:数学パワーが世界を変える』だ。

その冒頭に、こうある。

「この第四次産業革命を主導し、さらにその限界すら超えて先へと進むために、どうしても欠かすことのできない科学が、三つある。
それは、第一に数学、第二に数学、そして第三に数学である!」

なぜ、そこまでして「数学(数学的な表現を必要とする理論物理学なども含む)」の重要性を強調しているのだろうか。

その理由は、それほど難しくない。

第4次産業革命とは、革新的なデジタル技術が経済社会のあらゆる方面に浸透していく過程と言うことができるが、そのデジタル技術を根本で支えているのは、数学だからである。

例えば、「第3次AIブーム」の火付け役となり、第4次産業革命を加速化させたのは、深層学習(ディープラーニング)の登場である。この深層学習という新たな機械学習のアルゴリズムの根幹にあるのは、言うまでもなく数学だ。

ちなみに、1980〜1990年代までのいわゆる「第2次AIブーム」では、高校から大学2年までに学ぶ程度の数学の知識があればよいとされていた。それが、現下の「第3次AIブーム」になると、大学3〜4年で学ぶ数学の知識まで必要とされているという。AIの進歩とともに、要求される数学の水準が高まってきているのだ。

ソニーコンピュータサイエンス研究所の北野宏明社長は「ディープラーニング系の機械学習は、まさに数学の戦いだ」と言っている。まさに、その通りである。

数学者や物理学者の獲得競争

そもそも、現代のコンピュータの基礎を作り上げてきたのは、ジョン・フォン・ノイマンやアラン・チューリングをはじめとした天才的な数学者たちであったことは、よく知られている。

それ以前に、デジタル回路の設計において必須となるブール代数は、19世紀の数学者ジョージ・ブールが提唱したものだ。

いや、もっと時代をさかのぼるべきであろう。

現代の暗号セキュリティの中で最も一般的なのは、RSA(Rivest・Shamir・Adleman)公開鍵暗号である。この暗号は、素数が無限にあることとあらゆる整数が一意に素因数分解できるということに基づいているのだが、これを発見・証明したのは、2500年前のピタゴラスなのだ。

このように、歴史的に見ても、デジタル技術の進歩・革新を支えてきたのは、数学にほかならない。「第4次産業革命に必要不可欠な学問は、数学である」と言ったところで、何も驚くことはない。フィールズ賞受賞者の森重文・京都大学高等研究院院長も指摘するように、「昨今、世の中のものはほとんど背後では数学を使って動いている」のである。

世界の名だたるIT企業やシリコンバレーのハイテク・スタートアップ企業が、優れた数学者や物理学者の獲得競争を展開しているのも、そのためだ。

恐るべきことに、グーグル、アマゾン、フェイスブック、マイクロソフトといった巨大IT企業における理論研究の水準は、マサチューセッツ工科大学やスタンフォード大学といった超一流大学の水準をも凌駕しつつあるという。

このことが意味するのは、数学の理論研究がイノベーションに直結するようになっているということだ。「純粋数学は役に立たない」などという認識は、第4次産業革命以前のものである。純粋数学と応用数学の区分がなくなりつつあるのだ。

「数理資本主義」の時代がやってくる

このような問題意識の下、イギリスやフランスなどでは、数学が雇用の10%程度を生み出しているというレポートが出されている。歴史的にも数学に強いイギリスやフランスは、「第4次産業革命」を好機と捉えているのだ。

「報告書」は、数学が国富の源泉となる「数理資本主義」の時代が到来しつつあるとうたっているが、それは決して誇張ではないのである。

あの加賀市が、なぜ新しい「数学」教育に挑戦しようとしているのかも、これで明らかになったであろう。「数理資本主義」の出現を察知したからだ。

とくに、数学の知識や能力を習得するためには、初等中等教育の段階から、数学に関する興味を高めたり、数学に関する苦手意識を払拭したりすることが有効だといわれている。その意味で、数学者が子供たちに数学の面白さを伝える「数理女子ワークショップ」を企画しているのは、慧眼といえるであろう。

問題は、この来るべき「数理資本主義」の時代において、わが国は勝ち残ることができるのかどうかである。

これに関して、「報告書」は、わが国のポテンシャルは高いとしている。

例えば、フィールズ賞の受賞者数は世界第5位(3人)であるなど、日本の数学研究は世界の中で一定の存在感を示している。

また、義務教育終了段階(15歳児)の生徒の学力調査(PISA)によると、わが国の科学的リテラシーや数学的リテラシーは、国際的に見ても上位にある。

さらに、高校生らが参加する「国際数学オリンピック」や「国際情報オリンピック」では、例年メダリストを輩出している。

また、NPO法人「数理の翼」は、高い数学の能力を持つ中高生を育成しているが、近年では、若者同士がSNSを通じて数学の知識を入手し、切磋琢磨しており、高度な数学の能力を持つ「スーパー中高生」の層が厚くなっているという。

これらを見る限り、わが国は、「数理資本主義」において優位を確保できるだけの若い才能に恵まれているように思われる。

時代遅れの「数学は役に立たない」という先入観

問題は、その若い数学の才能を、デジタル技術のイノベーションに活かしきれているのかどうかだ。

例えば、国際数学オリンピックの予選通過者は医学系へ進む者が多いという調査がある。おそらく、収入や雇用がより安定した職種として、医者が選ばれているのであろう。

裏を返せば、大学の数学研究や企業のデジタル技術開発部門が、若い数学の才能を引きつけるのに十分な雇用環境を提供していないということだ。

また、日米の数学の博士課程修了者を比較してみると、アメリカの博士課程修了者の数は、日本の10倍以上である。しかも、アメリカでは産業界へ進む者の割合はおよそ30%であるが、日本は10%程度である。

また、「Nature Index 2017 Japan」によると、2005年から2015年の日本の論文出版数は、14分野中11の分野で絶対数が減少しており、しかも減少率が最も大きかったのが計算機科学(37.7%)であった。数学分野では、論文数は増加しているものの、その伸びは世界に比べて鈍化しており、物理学分野にいたっては減少している。

理論研究がデジタル技術の革新に直結する「数理資本主義」の到来を前にして、肝心の数学・物理学を含むわが国の研究の力が弱ってきているのだ。

その原因は、高等教育機関への人口当たり公的研究資金の伸びが過去20年間、停滞し続けたことや、若手研究者の雇用が不安定化したことである。平成の大学改革の失敗や財政健全化という過誤が、こうした事態を招いたのである。

大学だけではなく、企業側にも問題があるかもしれない。日本では、技術開発の中核となる人材はもっぱら「工学」出身であった。そのためか、「数学は役に立たない」という時代遅れの先入観がいまだ残っているのかもしれない。

また、高度な数学は、極めて抽象度が高いために、数学研究の具体的な成果をあらかじめ想定しにくい場合が多い。昨今は、企業でも政府でも、短期的な視野で、性急に具体的な成果を求める風潮が強いが、そんなことでは、金の卵を産む鶏と言うべき数学の才能を殺してしまう。

数学者は、数学が何かの役に立つからとか、高い地位や収入が得られるからといった理由で、数学を研究するのではない。単に、数学が面白いから、数学が好きだから、研究するのだ。

そういった強烈な知的好奇心や興味が動機となって、優れた数学研究が生み出され、それが結果としてデジタル技術のイノベーションへとつながる。

したがって、「数理資本主義」の時代には、KPIを設定したり、PDCAサイクルを回したり、費用対効果を厳格に評価したりするような企業経営や経済政策は、かえってイノベーションの芽を潰してしまう。そうではなくて、数学者の個人的興味や知的好奇心を最大限に尊重し、自由に活動させるような、これまでとは違ったマネジメントが求められるのだ。

そのようなマネジメントを編み出した企業や国こそが、数理資本主義の時代の勝者となるであろう。