技術革新によって貧富の差は一段と広がっていきます(写真:hyejin kang/iStock)

リーマンショック以降、世界中で富の格差が広がりました。
ではこれから先、格差の未来はどうなるのか? 実は2020年代に入ると富の格差はさらに広がり、先進国では新下流層というあたらしい階級が生まれると予想されます。『格差と階級の未来』の中でこれから起こりうるあたらしい経済格差について分析を展開する鈴木貴博氏が、将来のサバイバルのために必要な考え方を総括します。

クリントン政権で労働長官を務めたロバート・ライシュ氏は、退任後は経済学者として「富の格差」についての研究を進めています。そのライシュ氏は今世紀の始まりごろに次のような予言をしました。

「21世紀の社会では世の中の仕事は頭脳労働とマックジョブに二極化する」

マックジョブとは英語圏で言われる「マクドナルドの仕事のようにマニュアルだけをこなしていればできる仕事」のことです。ライシュ氏はクリントン政権下で進められたアメリカの情報スーパーハイウェイ構想の先に生まれるものは、ICTによってさまざまな仕事がマックジョブ化する未来だと見抜いていたのです。

AIの投入により非正規労働者の仕事は変わった

マックジョブとは日本語で言えば非正規労働者の仕事とほぼ同等です。それ以前の日本社会には正社員の仕事があふれていました。それは熟練が必要な仕事です。就職して何年もの時間をかけて、仕事を覚えて、それでようやく一人前になる。

一方の非正規労働者の仕事は、職場に投入されて数週間で覚えられて戦力化できる仕事です。ICTの進歩によって多くの仕事がマニュアル化・システム化されることで、21世紀に入って先進国の仕事の多くはマックジョブ化されていきました。

その状況を見据えて、ロバート・ライシュ氏は、21世紀の社会ではより多くの仕事がマックジョブ化して給料レベルが下がる。そのことで弁護士や会計士といった頭脳労働者との間に大きな富の格差が生まれるだろうと予言したのです。

しかし2010年代に入って新たな前提条件が生まれます。そしてそのことでロバート・ライシュ氏の予言から現実が乖離を始めます。それが予言当時には存在していなかったレベルのAI(人工知能)の出現です。2012年に誕生した新しいタイプの“深層学習をするAI”は、専門領域の頭脳労働を人間よりも賢くこなせるレベルへと進化を始めました。

その結果、2020年代にはフィンテックによって金融機関の仕事が、RPA(Robotic Process Automation)によって事務を行う正社員の仕事が、自動運転技術によって車を運転する仕事がなくなる、ないしは単純化されて誰でもできるようになることが予見されるようになりました。

そしてその先には弁護士や会計士といった高い給料をもらっているナレッジワーカーの仕事もAIがこなす未来がやってきます。少なくとも2030年ごろまでにはそのような時代がやってくると言われています。

問題はそのときにロバート・ライシュ氏の予言はどうなるかということです。もともとは21世紀には頭脳労働かマックジョブに人間の仕事は二極化し、そのどちら側に就くことができるか次第で富の格差が生まれるというのがライシュ氏の予言の趣旨でした。その格差の上のほうにある頭脳労働がAIによって消滅するのです。

ちなみに労働政策の専門家と話をすると、日本の政府はAI失業を起こさせるつもりはないようです。例えば2020年代に自動運転車が出現して無人の車で仕事がこなせる時代がきたとします。普通に考えれば長距離トラックの運転手やタクシーの運転手は失業するはずです。

ところがそれを容認してしまうと日本全体で123万人規模の失業者があふれ、大きな社会不安が起きることになります。そこでおそらく政府は「営業車にはかならずひとり、運転管理をする人間を乗せなければならない」というような法律を作るはずです。そうすれば“運転をするという仕事”がAIによって消滅しても、運転席にはひとり分の雇用が発生するのです。

AIが仕事を肩代わりしてくれたとしても「そのAIは資格をもった人間が扱わなければいけない」と法律で定めてしまえば、弁護士も会計士も医師も失業はしません。そういったことが労働政策的に行われるようになると予想されるのです。

では長距離トラックのドライバーは何も心配することがないのでしょうか。実はそうではありません。これまでは長年培ってきた運転技術が武器となり、大型トラックの運転にしてもタクシーの運転にしても熟練や特別な免許が必要なため、就職の際の競争相手はそれほど多くはなく、結果として中流の生活が十分に維持できる水準の給料がもらえていたはずです。

しかし「ただ乗っていればいい」という形で運転席に座る仕事の中身が変わってしまえば、労働市場から大量のフリーターが運輸業界に流れ込んできます。

あくまで未来予想の極端な話とはなりますが、これまで休み時間がほとんどないほど過酷な労働環境の不人気業種だったのが、ただ運転席に座って居眠りしたりスマホゲームをしたりしていれば仕事になるかもしれないのです。しかも仕事の内容次第では東京から大阪、福岡、札幌などさまざまな都市にお金をもらいながら旅行ができる。長距離トラックの運転席に座る仕事は簡単なうえに魅力のある仕事に様変わりするのです。

マックジョブにより中流階級は消えてゆく

そうなれば市場原理によって給与水準は激減します。言い換えると、長距離トラックのドライバーという専門職の仕事が、自動運転車の出現後には給与の低いマックジョブに変わってしまう可能性が高いのです。

こうして頭脳労働や熟練労働が消え、世の中はマックジョブ化する。専門性や熟練が必要だった仕事は、供給過多で給与水準はどんどん下がる。正社員の仕事が激減し、すぐに仕事を覚えてその日からこなせる非正規社員の仕事ばかりが増える。そういう時代がやってきたとしても不思議ではありません。

世界全体ではこの先、中流という階級が消滅すると言われています。米ドルにして年収3万5000ドル以上、日本円にして世帯年収400万円弱以上の家庭を仮に中流だと考えれば、多くの日本人がその水準にとどまることができなくなる。一方で世帯年収180万円程度の新下流層と呼ばれる人々が世界中で増加する可能性があります。

2020年代はこのように新下流層が激増する時代だと予想されます。頭脳労働や正社員の仕事がなくなり、世の中には資本家とマックジョブをこなす新下流層しかなくなるからです。

でもこのような話をすると、

「中流階級が崩壊すると、経済全体が縮小して資本家も困る。だから中流は崩壊することはないのではないか」

という反論が出てきます。

過去20年間でグローバル経済が発展した最大の理由は新興国を中心に中流階級の世帯数が倍増したことです。20世紀終わりには世界の中流層は先進国を中心に2億世帯程度でした。それが直近では中国やインド、ロシアやブラジルといった新興国で中流層人口が増え、世界の中流層は4億世帯に増えています。

中流層の所得が手に入ると、その人たちは家を買い、車を買い、高価な家具や家電製品を買いそろえます。先進国の生活水準の人が増えれば、グローバル企業はそのマーケット拡大で業績を上げます。これがゼロ年代、10年代の世界の繁栄を支えてきた出来事です。

その中流層が消滅して、「世界中が新下流層になってしまったとしたら、2020年代の世界経済はいったいどうなるか?」。そのことを考えたら、企業の側もそんなに安易に給与を下げられないのではないかというのがこの反論なのです。

二分化された経済の行く末は

ただ、ふたつの論拠からこの反論にお答えすることができます。

ひとつは給与水準というものは市場の神の手によって決まるものだということです。世界中の企業が計画的に「給与水準を上げたほうが市場は大きくなるからそうしよう」などと考えて行動することはありません。自然になるようになるというのがひとつめの論理です。

もうひとつは、たとえ中流層が消滅しても、世界中で新下流層が拡大すれば、グローバル企業の業績は上がるということです。先進国にとっては中流が消滅し多くの世帯が年収180万円程度の新下流層になってしまうのは国内市場の縮小につながりますが、新興国ではむしろこの新下流層がこれからの20年間において、10億世帯レベルで増加する可能性があります。するとグローバル企業にとってはむしろ世界全体での業績環境は向上します。「彼らは困らない」のです。

ただ、結論として世の中は新下流層という新しい階級と、資本家階級に二分化されるようになります。ではどうすればいいのでしょうか。

考えられる唯一の最適解は、資本家の側に回るということです。荒唐無稽なアイデアに見えるかもしれませんが、そうではありません。グローバル企業は主にアメリカと中国の企業に分かれているのですが、このうちアメリカの企業の株式は日本人でも買うことができます。


それは例えばアメリカ株全体に分散投資した投資信託のような商品です。これを買うことで、わたしたちは資本家の側に回り、グローバル企業の成長の利益を得ることができるようになります。つまりこれからの未来において資本家と労働者の間の格差が広がるのであれば、手持ちの資金を資本家の側に投資をすることが大切なのです。

もう少しわかりやすく言えば、ほとんどゼロに近い金利しかつかない銀行預金をやめて、iDeCoやつみたてNISAのような投資信託の運用を始めること。それもグローバル企業に投資する投資信託を少しずつ積み立てていくこと。こういった行動を取ることが、これから格差が拡大する未来に抵抗する非常に重要な視点だというのが、この話の最後の結論です。