縄文人たちも人を好きになったりしていたのだろうか(写真:夏泊 / PIXTA)

平成の終わり間際になって突然、縄文時代が注目を浴びていることで始まった本連載。前回(空前の「縄文ブーム」背後にある日本人の憂鬱)は、縄文人たちの世界観と、そこに惹かれる現代人について述べた。そこで今回は、彼らの暮らし、主に出産や子育てにまつわる話について具体的に紹介していこうと思う。

ただし、ここに記載する内容は、発掘調査によって見つかった遺構、および出土物から「こうではないか」と考えられることである。つまり、遺物から想像すると、ということであり、どんなに高名な研究者であろうと、タイムマシンに乗って当時を確認しないかぎり正解はわからない。そのことを念頭にお読みいただければと思う。

縄文人はどんな恋愛をしていのか

講演会やトークイベントなどで、「縄文人たちも人を好きになったりしていたんでしょうか」と、聞かれることがある。これはなかなか衝撃的な質問だ。


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確かに縄文人は昔の人たちすぎて、自分の想像をはるかに超えてしまっているから、「恋愛していたかどうか想像できない」ということかもしれない。そこで、この質問がされたときには決まってこう答えるようにしている。

「私たちと同じホモ・サピエンスですからね。きっと人のことを好きになったり、大事に思ったりしていたはずです」

1万年以上前の人たちと、今の私たちをつなげて考えるのは難しい。あまりに環境も暮らしも違いすぎるから、同じ人間とは思えないのかもしれない。しかし、前回も書いたように、私たちの中には縄文人のDNAがおよそ12%引き継がれている(沖縄、アイヌの人々はもっと多い)。

もっと冷静に考えてみれば、盛衰はあったにせよ、日本列島に人が暮らし続けたということは、今の私たちと同じように、男女が交わり、子どもをつくってきたからである。だから私たちが存在する。縄文人たち、1万年以上、ずっと交わってきてくれてありがとう、と心の底から私は言いたい。

そもそも、男女が交わり子どもをつくり、次に命をつなげることが彼らの最大ミッションであったと言っていい。そう言うと「フリーセックスの時代だったんだよね? いいな、縄文人たちは」と言う人がいる。

そんなことはない。

いや、そういう人も中にはいたかもしれないが、それは縄文時代に限った話ではない。いつの時代にもそういう主義の人はいただろう。ただ、縄文時代の人々の多くがそうであったかと言うと、そんなことはないのではないか。

集落内の恋愛はタブーだった?

50人以上が一時期に暮らすような大規模な集落ならいざ知らず、一般的な集落はおよそ15〜20人ほどで暮らしていたという。構成としては、縄文時代に限らず世界中の先住民でも同じであるが、血縁者を中心に営まれることが多い。その中で年頃の娘が恋に落ちようとすると、条件的にはかなり難しいだろう。

もちろん禁断の恋、というのもあっただろうが、昼ドラも真っ青の血みどろの争いになるのは間違いがないから、そんな危険はそうそう犯さなかったはずだ。それと、彼らは、それまでに培われた多くの経験から、血縁者と交わることによって起こるさまざまな問題を把握していたはずだ。よほどのことがないかぎり、集落内の恋愛はタブーだったのではないか。

年頃の娘はどうやって恋に落ちていたのか。

縄文時代は私たちが思う以上に列島内での交流、交易が盛んに行われていて、伊豆諸島の八丈島にある倉輪遺跡からは、関東、東海、近畿を中心に、遠くは青森の土器も見つかっている。縄文人たちは小さな丸木舟に乗って荒波を越え、島に向かう旅をしているのだ。

もちろん、陸路もある。70カ所ほどある黒曜石の産地のうち、縄文人たちにとって最高のブランド黒曜石は長野県産のものだったようで、数百キロ離れた遺跡から見つかることも多い。

もちろん、物だけが移動するはずもなく、人が運んでいる。集落から産地に赴き、入手することもあれば、現在のように仲介人のような存在が運んでいたことも考えられる。つまり、集落以外の人間がやってくる機会がそれなりにあったということ。これは、年頃の娘がいる集落にとっては絶好のチャンスである。

物も欲しいが、婿はもっと欲しい。

集落のオサをはじめ、総出で旅人をもてなし、少しでも長く滞在させたことだろう。居着くこともあれば、娘と恋仲になって子どもだけをつくり、外に出ていってしまうこともあったはずだ。

縄文人の初産は18〜19歳くらい

とはいえ、男性には申し訳ないが、集落としては子種さえあれば良かったのではないか。その観点から見ると、縄文時代に作られた男性器を模した「石棒」という遺物も納得がいく。女性や妊婦を表現した土偶に対して、男性は男性器だけを表現した石棒で、全体を表現されることがない。なんとも露骨な話である。

ほかに、いくつかの集落が、拠点集落と言われる大きな集落に集まり、一堂で祭りを行うことがあった。今でもそうだが、一種独特な高揚感も手伝って、祭りの場は恋が芽生えやすい。祭りの際には、皆ハレの衣装で着飾って祈りの儀式を行い、若者たちはその後、森に消える……。

一年に数度行われる大きな祭りも、縄文人たちにとっては大切な出会いの場だったのだ。

そうして外から新たな血を入れて集落は維持され、時に大きくなった。

古人骨の研究者によれば、現在の狩猟採集民の民族事例から考えて、縄文人の初産は18歳から19歳ではないかという。

意外に遅い。

今よりも栄養状態が悪かったことを考えれば、初潮は14歳から15歳ぐらいだったはずで、だとすれば、この初産はごもっともである。それに、初潮が来たところで、前述のようにうまく男女が恋仲にならなければ、身ごもるチャンスはない。

では、一生のうち、何人ほど産んでいたのか。

これも民族事例から考えて4人から6人ほどだったのではないかという。もちろん、栄養状態が良くなり、人口がいちばん増えた縄文時代中期はこの限りではないだろう。平均して、このぐらいだったのではないか、ということである。

平均寿命は40歳前後と考えられるから、人によってはずっと妊娠、子育てしていることになる。そんな子だくさん、お母さんが疲弊しきっちゃうじゃない!と思うが、一時期テレビでよく目にした大家族の暮らしを思い出してほしい。上の子が下の子の面倒を見て、母の代わりをしていた姿を。

「子どもは集落の子ども」だったのではないか

縄文時代も言うに及ばず、上の子だけでなく、集落全体が社会の子どもとして面倒を見ていただろう。同じ時期に子どもを産んだお母さんがいれば、時には母乳だって融通していたはずだ。父親は狩猟の時にイノシシにやられることだってあるし、黒曜石を求めて集落代表として旅に出てしまうかもしれない。そうなると父親には頼れないから、集落全体で子どもを育てていくしかない。誰の子でも、集落にとっては大切な子どもなのだ。

そもそも縄文時代は女性によって支えられた時代だと私は考えている。祖母から母、そして子へと生活の知恵が伝えられていく。女性たちは皆で子育てをし、森の恵みを採集し、料理を作る。季節によって土器を作り(男性が作る場合もあったと思う)植物の繊維から糸をよっては、布を編む。カゴ作りは男女共にしただろうが、暮らしの大部分を彼女たちが支えていたはずだ。

今は核家族化が進み、子育ても自助努力と言われるが、限度がある。子どもを育てていく社会的現状は依然として厳しく、仕事と子育ての両立をしている女性たちの奮闘ぶりを見ると、頭が下がる思いだ。もちろん、男性も子育てに参加している人が多いとはいえ、やはり女性の負担が大きいのは否めない。

縄文時代のような、子どもは集落皆の子ども、という考え方を現代に落とし込んだ仕組みはできないものか。当時、壮年の男女は働くことに忙しく、子どもの面倒を見るのは集落の年長者だったとする研究者が多い。

昭和30年、40年代までの日本はそうだったし、地方では、まだその流れがある。まったく同様にとは言わないが、都市部も横とゆるくつながり、お互いさまで連携が取れる社会の仕組みが今まで以上に求められている。

縄文時代のリアル子育てを見てきたわけではないけれど、そこに何かヒントがある気がしている。