森保ジャパンの10番を背負う中島は、真剣勝負を心から楽しんでいる。写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

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 いまからちょうど20年前の話だ。
 
 日本が初めてワールドカップ出場を果たした1998年のフランス大会が3戦全敗に終わった時、国内ではひとりの選手が戦犯として槍玉に挙げられていた。
 
 大会期間中に23歳になったばかりの若きエース、城彰二である。
 
 ゴールを奪えなかったこと以上に、「ガムを噛みながらプレーして、決定機を外してもへらへらと笑っている」姿が、多くの国民の反感を買ったのだ。
 
 エースの重責を背負い、ワールドカップの大舞台に臨んだ城が、食事も喉を通らず、食べては吐いてを繰り返すほどのプレッシャーに苛まれていたことは、のちの報道によって世に知らされる。ガムを噛んでいたのも、無理に笑顔を作ってみせたのも、極度の緊張状態を和らげるためだった。
 
 ただ、当時の世間は許さなかった。
「試合中に笑うなど不謹慎だ」
 帰国した城に、空港でペットボトルの水が浴びせられた。
 
 それよりもさらに2年前。96年のアトランタ五輪で、期待された日本の競泳陣はひとつもメダルを取れなかった。期待は失望に、失望はやがて批判に変わり、その矛先は当時史上最強との呼び声もあった女子競泳チームのキャプテン、千葉すずさんに向けられた。
 
 取り沙汰されたのは、「楽しいオリンピックにしたい」という、大会前に再三メディアを通じて発信された言葉だった。
「真剣さが足りないから勝てないのだ」
 若い選手たちをプレッシャーから解放するための千葉さんの発言はしかし、水泳界の重鎮たちの怒りを買い、当時は多くの国民もそれに同調していたように記憶する。
 
「笑うこと」が、「楽しむこと」が、日本のスポーツ界で許されなかった時代が、ほんの四半世紀ほど前までは確かにあった。
 いや、体育会系の根性論はいまも根強く残り、血の味のする唾を飲み込んでこそ、足が折れても走り続けてこそ一流のアスリートになれるのだという精神至上主義が、一掃されたわけではない。
 
 それでも、時代は確実に変わりつつある。
 
 ウルグアイ代表との親善試合で、背番号10のユニホームをまとった中島翔哉が、それを実感させてくれた。
 
 ボールを持ったら、必ず前を向いて仕掛ける。コースが空けば、これでもかとばかりにミドルを撃ち込む。先輩たちへの遠慮など毛ほどもない。さらには、切れ味鋭いシザースフェイントで百戦錬磨のマルティン・カセレスを手玉に取ったかと思えば、CKを蹴る前には跨ぎリフティングを披露して、観客をどっと沸せてみせる。
 
 ちょっとした衝撃だった。
 
 これほど楽しそうにプレーする日本人サッカー選手が、かつていただろうか。8月で24歳になったばかり、代表キャップはまだ4つ、相手はFIFAランク5位の強豪ウルグアイ。それでも彼は、足がすくむどころか、誰よりも晴れやかな笑顔を浮かべながら、思う存分にピッチで躍動した。
 
 頭をよぎったのは、「極上のエンターテイナー」、「笑顔のフットボーラー」と呼ばれ、とりわけバルセロニスタに愛されたロナウジーニョの姿だった。
 現役時代の彼を突き動かしていたのは、プレーする喜び、ただそれだけだったが、中島からも同じ香りが確かに伝わってきた。
 
「僕にとって一番大事なのは、試合を楽しめるかどうか。楽しめている時は、自然と良いプレーができるんです」
 
 楽しむことに、笑うことに、“日本版ロナウジーニョ”は一切の躊躇がない。それをタブー視された時代が、まるでキリシタンが弾圧された遥か遠い昔のようにも思えてしまう。
 
 もちろん、中島がサッカーを心から楽しめるのは、それだけの準備をしているからに他ならない。リオデジャネイロ五輪で日本代表のチームドクターを務めた高木博医師は、こう証言している。
 
「翔哉はとにかくストイック。もうやめろとストップをかけられても、こっそり筋トレを続けるような子でしたから(笑)」
 
 もしかしたらこの先、かつての城が背負ったような重圧に、中島も苦しむ時が来るかもしれない。結果が出なければ、心ないファンから辛辣な野次も飛ぶだろう。
 
 だが、自分の力ではコントロールできないこと──メディアやサポーターの批判──に心を砕き、思い悩む必要はない。これからも、ひたすら自分自身を磨く作業に手を抜かなければ、きっと笑顔でピッチに立ち続けられるはずだ。
 
文●吉田治良(スポーツライター)