日活ダイヤモンド・ライン、パール・ラインの俳優陣(写真:日活)

石原裕次郎氏や小林旭氏など、日本を代表するスターを数多く発掘してきた映画製作・配給会社、日活。同社は、元号が大正に代わった1912年に誕生した。戦前・戦中・戦後と業界環境や資本、経営方針の変化を経験してきた同社の歴史は、日本映画の歴史そのものでもある。1993年には会社更生法の申請を経験しながらも、“日活”の社名を絶えさせることなくつなぎ続けた106年と日活の今に迫る。

日本映画の黄金期を支えた

日活が創業した1912年当時、映画産業は現代で言うところのベンチャービジネスだった。すべてが手探りの中で、中国革命の父・孫文と深い親交を持つ梅屋庄吉氏が立案し、4社が統合して「日本活動写真株式会社(日活)」が設立された。


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その後は、国内有数の撮影所となった京都の大将軍や太秦撮影所、東京・多摩川撮影所などで盛んに日活ブランドの映画作りが行われたが、太平洋戦争下では、戦時統合により製作事業が日活の手を離れてしまう。

しかし、映画製作へのこだわりを捨てず、1954年には調布に新たな撮影所を建設し、製作事業を再開。再開第1回目の作品となった『国定忠治』(1954年、滝沢英輔監督)や『ビルマの竪琴』(1956年、市川崑監督)などの作品を世に送り出した。

一方で、日活以外の大手映画会社間では、監督・専属俳優の引き抜きを禁止する協定、いわゆる「五社協定」が締結されており、主役級俳優の確保に苦心した。

そこで日活は「ニューフェイス」と呼ばれる若手俳優の登用をいち早く進め、宍戸錠や、小林旭など昭和の映画史を彩るスターが輩出された。また、石原裕次郎や浅丘ルリ子、吉永小百合らも加えた若手俳優陣の活躍によって、アクションや青春映画が空前の大ヒット。日活だけでなく、国内映画業界も黄金期を迎える。若手俳優の起用という日活の素早い一手が、映画業界を変えたのだった。

映画製作へのこだわりを捨てず方針転換

1958年に映画館への入場者数約11億2700万人(映連調べ)とピークを迎えた日本映画界だったが、テレビ時代の到来により1965年には約3分の1に減少し、産業全体が急速に衰退。日活は系列映画館を利用した低予算作品での市場確保を進めるべく、1971年に成人映画「日活ロマン・ポルノ」の製作を決断する。この決断が他社との差別化につながり、以降の業績を支えることとなるが、その一方で多くの専属俳優や制作スタッフが会社を去って行った。

しかし、この時会社に残った若手スタッフや活躍の場を求めて集まった若い監督らが、多くの経験を積んでいく機会になったと言われる。後の平成『ガメラ』三部作(1995年〜1999年、大映)で活躍する映画監督の金子修介や、『リング』(1998年、東宝)でジャパニーズホラーを定着させた中田秀夫なども、この時代に助監督として経験を積んだメンバーだ。


社内に飾られた俳優、監督たちの手型モニュメント(写真:日活)

同時に、児童文学を映画化した作品や『戦争と人間』三部作などの大作も作り続けるなど、映画製作へのこだわりを貫いた。

現社長の佐藤直樹氏は「当時の日活には、それでも映画を作り続けていくんだという大きな覚悟があったのだと思います。五社協定やロマン・ポルノ、そして現在も、日活を生まれ変わらせてきたのは、いつも素早い行動と“若さ”でした」と話す。これが、日活の100年を貫く1つのキーワードでもある。

こうした映画製作への動きの半面、高度成長期にホテルやゴルフ場経営、不動産事業など総合レジャー産業への多角経営を進めたことで、多くの資金が固定化し経営を圧迫。映画事業も下火となりビデオソフトの販売などで業況を維持していたが、93年には会社更生法の適用を申請した。

この時、アミューズメント大手のナムコの創業者・中村雅哉氏(故人)が日活の管財人となり、再建を強く後押しし、2001年に更生手続きを終結。新生・日活としての再出発が果たされることとなった。

2005年、社長に就任した佐藤直樹氏は、「世界中の人々に面白い作品を届ける」という企業理念を掲げ、「日本の外へ。映画の外へ。世界中のあらゆるデバイスで日活のタイトルを提供する」という考えを社員に共有している。


16代目となる佐藤直樹社長(写真:筆者撮影)

近年は、インターネットの普及や娯楽の多様化などから、顧客や制作現場など、映像コンテンツ業界を取り巻く環境が大きく様変わりした。

「小売・流通業界がネット通販との競争にさらされたように、ひとつの産業が丸ごとその在り方を変えなければならない時代に突入している」と佐藤社長は日活を取り巻く環境について分析する。

タイではテレビ番組を制作

現在、Amazonオリジナルドラマ『紺田照の合法レシピ』(3月6日配信)や体験型ファミリー映画『映画 おかあさんといっしょ はじめての大冒険』(9月7日公開)といった新たな映像製作に取組んでいる。

また、海外との共同製作となる『海を駆ける』(5月26日公開)やタイ企業との合弁で設立した制作プロダクション「カンタナ ジャパン」でのTV番組制作など、海外に目を向けたチャレンジも続けている。先般、カンタナが制作したタイ地上波でのクイズバラエティー番組『Wezaa CoolJapan(ウィザークールジャパン)』が、同時間帯での視聴率トップを記録したという。

一方で、佐藤社長の掲げる理念には「日活が映画を作り続けて行くために」という枕詞がある。他の映像事業領域へ意識を向けながらも、日活の中心には「映画」があることに変わりはない。マンガ原作でブームを巻き起こした『DEATH NOTE』シリーズ(2006年〜2008年、前述の金子、中田両氏が監督)や日本アカデミー賞で10冠を受賞した『八日目の蝉』(2011年、成島出監督)は日活作品だ。

昨年は『散歩する侵略者』(黒沢清監督)、主演の蒼井優が日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した『彼女がその名を知らない鳥たち』(白石和彌監督)などが国内外で高い評価を受け、こだわり続けた映画製作事業が今でも日活の根幹として貫かれている。

佐藤社長に「日活の社訓」について質問すると、「社訓は“ない”と思います。ただし、私の中では、日活を次代へ引き継いでいくという意志だけは強く持っています」との回答が返ってきた。帝国データバンクの調べでは、老舗企業の約7割が社訓・社是を持っている。長い会社の歴史の中で、その時々の経営者や従業員が立ち返る拠り所として、多くの企業で社訓が受け継がれてきた。

しかし、日活には社訓がない。困難な局面に立たされたとき、現場に居合わせた人たちが自分の頭で考え知恵を出し合い、体を動かして会社の将来を切り拓いてきた。

女優・和泉雅子は日活撮影所の存在を、“学校”と表現したという。社員をはじめ、撮影スタッフ、俳優、年齢もさまざまな人々が良い映画を作るという目的のもと集まった場が日活だった。社訓は無くても、そういった場がなくならないようにという、強い“意志”がそこにあった。

あるのは会社存続に対する強い意志

それは経営者にとっても同じ。佐藤社長は、「黄金期終焉後、ロマン・ポルノから会社更生までの間、労働組合幹部から専務、そして社長となった根本悌二氏(故人)。いちばん厳しかったであろう時に舵取りを任された根本氏と、できることなら少しでも話がしてみたいですね」と本音を語ってくれた。

社訓がないだけに、過去の“先生”“先輩”と有形無形の対話を繰り返すことで、これまで16代を数える日活の経営者は、会社を存続させていくという強い意志を受け継いできたのだろう。

「それでも、世界中の人々に面白い映画・コンテンツを観せたいという思いは、私も先人たちも変わらないと信じています!」(佐藤社長)。

日活には106年かけて蓄積してきた膨大なフィルムライブラリという“財産”もある。90年代という早い段階から開始していた衛星放送事業「チャンネルNECO」は、先人たちが作り続けたフィルムライブラリがあるからこそ可能な、日活ならではの事業だ。必ずしも、老舗企業に社訓は必要ない。困難の歴史の中で、もがき続け、映画製作にこだわり続けた人の意志の集合体という形で、今日の日活がある。