ヒップホップの社会的地位を押し上げた功労者を中心にここ数日、論争が繰り広げられています。これは『単に日本語のラップではなく、本質的なヒップホップを伝えなければ』という想いからの、とある発言が端を発したものだと推察されます。これに対し『ラップが市民権を得る事で、ヒップホップも広まる』、『おじさんの意見』という様な反論が寄せられ、物議を醸しているのです。

 この論争の基礎にあるのは、アンダーグラウンドでの試行錯誤を経て『BAZOOKA!!! 高校生RAP選手権』(2012年)から『フリースタイルダンジョン』(2015年)でブレイクした日本語ラップのブーム。これによってお茶の間にフリースタイルMCバトルの魅力が広がり、日本人にラップの面白さが広がった事は事実でしょう。職場や街中などでもラップをしている人を多く見る様になりました。しかし、(フリースタイル)ラップはヒップホップの1要素に過ぎません。それに対する疑念が「これは流行であり、本質的な文化や精神がおろそかになってしまっている」と問題提起に繋がったのでしょう。

 日本語によるヒップホップに関する議論は、黎明期より繰り返されています。よって答えを求めるというより、考え続けねばいけない問題だと思いますので「本質的にヒップホップとは」、「ラップがどれだけ現代ポップスにおいて基本的なスキル(楽器)になっているか」など、私が個人的な見解を綴る無粋は避けねばいけません。とはいえ、インターネットやYouTube、SNSという御旗のもと、音楽がグローバル化しジャンルが融解した結果、もう何がロックなのか、ポップスなのかよくわからないのも事実です。

 近代に成立したジャズが良い例ではないでしょうか。アメリカで発生し、初録音から100年を経た今「何がジャズなのか?」という事を定義するのは非常に困難です。「即興」や「スウィング」という少し前ではジャズを定義できそうだった言葉も、現代においては有効性を失ってしまった様に感じます。また、ファンクから生まれた「グルーヴ」という言葉を誰が正確に語るといえましょう。

 ただこの論争を見ていてとても興味深いのは、昨今「同じ音楽だから良いじゃないか。ひとつになろう」とされがちなところから「はっきり線引きして、その上で広げよう」という意見が日本で議論されている事なのではないでしょうか。音楽的ナショナリズムともいえる動向が日本でも起きています。あなたはどうお考えになりますか。【小池直也】