J2降格が決まった最終節の湘南戦。楢崎(1番)、闘莉王(左)はがっくりと肩を落とした。写真:滝川敏之(サッカーダイジェスト写真部)

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 名古屋グランパスがクラブ史上初めてJ2に降格した。久米一正社長が「名古屋を落としたことは末代までの恥」と表現したまさかの結末は、Jリーグのオリジナル10がまたひとつ負の歴史を刻んだことを意味する。
 
 特にトヨタ自動車の子会社となり、さらなるビッグクラブ化を推し進めたかったクラブにとっては最悪の結果。だが、今季の名古屋の歩みには、そうなるだけの問題が山積していた部分は確かにあった。
 
 まず触れなければいけないのは、小倉隆史GM兼監督体制の失敗だ。GMとしては今季11得点のシモビッチを獲得し、イ・スンヒも中盤のスキッパーとして重要な戦力の一端を担うなど、補強を成功させた面もあった。

 しかし滑り込みで獲得した安田理大や古林将太、最終ラインの軸として期待されたオーマンらは思うような活躍ができず、強化担当としての仕事は五分五分といったところ。新人の和泉竜司と高橋諒は小倉体制で経験を積み、A契約に到達するなど即戦力として最低限のラインは超えてもいた。
 
 問題はチーム作りの面にある。監督1年生の小倉前監督の理論体系は確立していたようだが、いかんせん、それを選手に浸透させ、チーム戦術として成立させる手法に欠けていた。つまりは指導者としての経験不足が大きく足を引っ張った。
 
 しかもチームコンセプトを一から組み上げる作業に没頭するあまり、体力作りも重要な要素であるキャンプで負荷の高い練習をあまり行なわず、開幕直前に行ったYOYOテストではトップの数字が他クラブでは平均程度という事態も招いていた。
 
 それでいてチームの戦術指導が順調に進んでいったわけでもなく、開幕から2か月ほどはまだポジティブに受け止められた内容と結果も、徐々に陰りを見せていった。
 
 その結果が18戦連続未勝利という散々な成績である。頼みの夏の補強もハ・デソン、扇原貴宏がすぐに負傷離脱する不運にも見舞われ、7月にはついに降格圏へと足を踏み入れた。もがけばもがくほど沈んでいく底なし沼のような日々に、指揮官は解決策を見いだせず、選手たちはピッチを右往左往した。
 7月30日の横浜戦では来日したばかりのジュロヴスキー現監督が視察する中、対処療法的に導入した5バックで引き分けに持ち込んだが、その場しのぎの感は強かった。

「5人目まで連動するサッカー」という自らの信念を曲げてまで繰り出した苦肉の守備的サッカーは実らず、そこから3試合を経て小倉体制は終了。まずはコーチとして招聘し、その後昇格という形でジュロヴスキー監督が誕生した時から、名古屋の最後のあがきは始まった。
 
 3勝3敗2分。一時は残留圏と勝点7差があった“負け戦”を、ジュロヴスキー監督のチームは懸命に戦った。就任からわずか1週間の準備でチームに新たな戦術を植え付け、FC東京と引き分けると、続く新潟との直接対決を制し、19試合ぶりの勝利。この試合から指揮官の切り札として復帰させていた田中マルクス闘莉王も出場し、チームを力強くけん引するなど、用意したカンフル剤がてきめんに効き、名古屋は息を吹き返した。

 続くG大阪戦は力負けするも、仙台とのアウェー戦、5-0で大勝した福岡戦でシーズン初の連勝。ここで一度は残留圏に浮上した。

 だが、国際Aマッチデーによる3週間の中断期を境に、チームは下降線を辿った。清水で行なったキャンプの出来自体は良かったのだが、中断明け初戦の磐田とのゲームはそれまでのポゼッションベースの戦いが展開できず、翌週の神戸戦はステージ優勝争いを演じた地力の差を見せつけられ、再び降格圏に転落。

 16位で迎えた最終節は結果的には勝点1で十分だったが、「勝たなければ危ない」とでも思ったかのように冷静さを欠き、攻め急いだ挙句に3失点の大敗を喫した。土壇場での勝負弱さはシーズン序盤から抱える課題で、前体制の負の遺産が最後まで尾を引いた形になった。