プロレスファンであることを誇りに思う! 究極の果し合いだったハンセンvsベイダー

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1990年2月10日、この日は当時のプロレスファンにとって生涯忘れられない一日となった。
交わることがないと思われていた全日本プロレス勢が新日本プロレスのリングに上がった記念すべき日であり、猪木が「1、2、3、ダー!」を初披露(記事はこちら)。元横綱の北尾光司がプロレスデビューした日(記事はこちら)でもある。プロレス史に残る出来事が次々と起こった東京ドーム大会であったが、もっとも会場のボルテージが上がった試合と言えば、「最強ガイジン決定戦」で間違いないだろう。
ビッグバン・ベイダーが保持する新日本プロレスの至宝IWGPヘビー級にスタン・ハンセンが挑んだ世紀の一戦。空前絶後のスーパーヘビー級対決が繰り広げられたのである。

過激なファイトが売りの両雄が真っ向勝負


チャンピオンのビッグバン・ベイダーは、190cm、170cmの圧倒的な体格を誇る超巨漢レスラー。アメリカのアスリートの頂点、アメフト『NFL』上がりであり、ボクシングでも大学時代にアマチュア王者に輝くなど、運動神経も抜群だ。しかも、その腕っ節の強さに加え、気の強さも天下一品。アグレッシブ過ぎるファイト内容で、ケンカ一歩手前の不穏試合も数多い危険な選手であった。
対するスタン・ハンセンは、日本プロレス史を語る上で欠かすことのできない外国人レスラー不動のエース。セオリー無視でノンストップで攻めまくることから、付いた異名は「ブレーキの壊れたダンプカー」。やられたら倍返しが信条のファイトスタイルは、多くの対戦相手を震え上がらせていた。

試合序盤から乱打戦! ベイダーの右目に異変が…!?


先に入場したハンセンがベイダーの入場時に奇襲を掛けるなど、試合前からケンカ腰の2人はゴングと同時に凄まじい殴り合いをスタート。アマチュア時代に42戦全勝、内20以上のKOを築いたという殺人パンチがハンセンを襲う。負けじとハンセンも応戦。荒々しいパンチやチョップを顔面に容赦なく打ち込んでいく。
しかし、ここでアクシデントが。もみ合う内にハンセンのエルボーがベイダーの右目に直撃してしまったのだ。痛みに耐えかねて、ベイダーがマスクを脱ぎ去ると、オーロラビジョンにその素顔が映し出された。そして、会場が騒然となる。大きく腫れ、青く変色した右目があらわになったのだ。後にブームとなる総合格闘技の試合であれば、ドクターストップもやむなしといった状況だが、試合が続いてしまうのがプロレスの奥深いところ。
悲鳴にも近いどよめきが上がる中、その右目を気にすることなく猛ラッシュを続けるベイダー。一体、何が2人にここまでの試合をさせたのだろうか?

団体の威信と世代交代を掛けた究極の一戦だった


スタン・ハンセンは、この試合が新日本プロレスに8年2ヶ月ぶりの里帰りとなる。ライバル団体の全日本プロレスに移籍以降、長年に渡ってトップに君臨して来たハンセンにとっては、全日本プロレスのメンツにも関わる大一番だ。もちろん、ベイダーにも新日本プロレスを代表する外国人レスラーの意地がある。それぞれが団体の看板を背負っているから負けられない。
しかも、猪木&馬場という日本のツートップを倒し、80年代の10年間に渡ってトップをキープしてきたハンセンに対し、ベイダーはわずか2年でトップに上り詰めた新星。世代交代を掛けた一戦でもあったのだ。

右目が完全に塞がったベイダーだったが、自身の巨体を活かした圧殺技を全開にして見せ場を作り、ハンセンも並み居る強豪を総なめにしてきた必殺のウエスタン・ラリアットを炸裂。休むことなくお互いのプライドをぶつけあったが、結局、両者リングアウトのドローで試合は終了。
プロレスラーの凄さが伝わる、そして、プロレスファンであることを誇りに思う白熱の一戦だった。

ちなみに翌日の東京ドームは、ボクシングWBC・WBA統一世界ヘビー級王者のマイク・タイソンの試合が組まれていた。「明日は観てくのか?」と聞かれたハンセンはこう答えたと言う。
「今夜、ベイダーから受けたパンチに比べたら、彼らのパンチなんてたいしたことないよ」
2人の偉大なるプロレスラーの生き様に乾杯!

※イメージ画像はamazonより1993 プロレス・オールスター・スーパーカタログ (週刊ゴング増刊)