学生の窓口編集部

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幕末・維新の志士といえば、西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬に桂小五郎など、薩摩・長州・土佐藩のイメージが強い。彼らが倒幕・維新をけん引し、大きな役割を果たしたのは紛れもない事実である。しかし、もともと幕末・維新の主役は「薩長土肥」、つまり「肥」である肥前(ひぜん)藩(=佐賀県)の活躍があってこその成功なのはあまりフォーカスされていない。

薩摩・長州藩は外国船を追い払おうとして失敗。多大な被害を負うだけでなく、多額の賠償金を支払うハメになってしまったが、佐賀藩は日本の非力さを認識し、技術力の向上に注力。その結果、高精度の銃や大砲を作り上げる卓越した科学力を持っていたのである。

■佐賀のスゴイ科学力

かつて日本は、海に囲まれた世界一安全な国であったが、黒船の登場によってその安全が絶対なものではなくなってしまった。幕府は当初、長崎のオランダ商館長からペリーが来ることを知らされても、とくに行動はしなかった。

対して佐賀藩主の鍋島直正(なべしま なおまさ)は、自力で長崎沖合の佐賀藩領に砲台を築き、大砲の大量生産に乗り出した。「将来戦争が起きるだろう」と、早くも予見していたのである。

その後幕府は、ロシアより開国・通商を求められたときに、佐賀藩によって固められた防備を背景に、「将来日本が他国と通商条約を締結する場合にはロシアにも同一の条件を認める」という約束だけで撤退させることに成功したのである。

こうしてその技術力を買われた佐賀藩には、幕府より大砲の生産や、砲弾をつくるための反射炉を建設するための技術協力などの依頼が舞い込むようになったのだ。

藩内の科学力の高さの秘密は、藩主の直正にあった。直正は藩主の座を受け継ぐと改革をおこない、まず若手を長崎に送り込み、科学技術をオランダ人から学ばせたのだ。
そしてもうひとつ、すべての藩士に弘道館(こうどうかん)という藩校で学習させることを義務づけた。ここでの成績が悪ければ、どんなに身分の高い藩士であってもポストにつくことができないほど厳しかったという。

こうして、世界でもっとも優れた大砲と言われたアームストロング砲を始め、西洋式の最新武器や蒸気機関、蒸気船の国産にも成功するほどの高い科学力を得るようになるのである。

■妖怪と呼ばれた肥前藩主「鍋島直正」

やがて直正は、幕府の大老・井伊直弼(いい なおすけ)より盛んに意見を求められるようになる。参勤交代の際には軍艦で江戸まで来ても良い、と破格の条件を提示されていたというが、これではなんのための参勤交代なのか。

。。とにかく、それほどまでに信頼されていたのである。

そんな密接な関係にあったが、桜田門外の変で井伊が亡くなると状況は一変する。身の危険を感じた直正は、息子に藩主の座を譲り、尊王攘夷(そんのうじょうい)派とも公武合体(こうぶがったい)派とも手を組まずに、傍観を続けていたという。

これは国政に興味が無いわけではなく、むしろそこに参加するベストな機会を虎視眈々と狙っていたのだ。そして、ここぞという絶好のチャンスである戊辰(ぼしん)戦争でアームストロング砲を持ち出し、表舞台に登場したのだった。

こうしてみると、佐賀藩は積極的に戦うわけでもなく、かといって他の藩から見くびられることもない、不思議な立ち位置であることがわかる。それは、この藩主である直正が独自に動く策士であったため、その意図や考えがわかりにくく捉えどころがないのだ。

そのため、肥前の妖怪とも呼ばれていた。

直正は、満州開拓やオーストラリアでの鉱山開発を提言するなど、のちに待ち受ける食料や資源などの問題を見通していたとも言われている。彼が妖怪というのも、あながち間違いではないのかもしれない。

■まとめ

「薩長土肥」の「肥」が加わったのは、結果的に最後であった。ただし、佐賀藩が加わったことにより、ものすごい武力が薩長にもたらされたのである。

この卓越した科学力が新しい時代に向けて、間違いなく大きな役割を果たしていたのである。

(沼田 有希/ガリレオワークス)