遥かなるツール・ド・フランス 〜片山右京とTeamUKYOの挑戦〜
【連載・第28回】

 TeamUKYOの今後について問うと、片山右京は、目標とする「ツール・ド・フランス参戦」の展望だけでなく、2020年・東京オリンピックが自転車界に及ぼす影響や、全国各地での支援活動についてもビジョンを語った。いったい何がこれほどまでに彼を、精力的な活動に駆り立てているのか――。片山を動かしている原動力について、さらに話を聞いてみた。

 何のために自分たちは、多方面に渡る活動を続けているのか。そして、それはいったい誰のための活動なのか――。

 そこを見失うと、自分たちの存在理由もなくなってしまう、と片山右京はいう。

 現在の片山自身の核を占めているこの『思想』は、モータースポーツの現役選手時代には考えたこともないものだったという。

「僕の仕事は人を蹴落とすことで、むしろ完全な利己主義者だから、そういう感覚はゼロだったんですよ。でも、F1に乗っけてもらったことで、自分に会いたいと言ってくれる人たちがいて、その活動の中でたとえば、『メイク・ア・ウィッシュ(難病を抱える子どもたちの夢の実現を援助する世界的ボランティア団体)の子たちに会ったりしたことで、少しずつ自分の中で仕事に対する意識や、命に対する価値観が変わっていった。

 また、自分自身も親になったことで、決して臆病になったわけではないけれど、危険な行為をすることが果たして冒険なのか......という疑問も生じるようになった。命を大切にしながら挑戦をすることが、むしろ大事で大切なことなんじゃないか、と少しずつ思うようになっていったわけです」

 やがて、レースの現役を退き、活動の場を広げて様々な世界でチャレンジを続けていく中で、片山自身の生き方や、生命というものに対する向き合い方を大きく決定づける、ある出来事が発生する。

 2009年冬、片山と同僚男性2名が厳寒の富士山登山中に遭難。自身は自力でなんとか下山を果たしたものの、同僚2名は生還を果たせず、山で命を喪ってしまう事故が発生した。

「ふたりを助けられなかったことは、ずっと忘れることができない。自分の上には、今でもあのふたりがずっと乗っかっている。だから、絶対に停まっちゃいけないし、彼らふたりの分も、あるいはそれ以上にも頑張らなければいけないんです。あのふたりに対する懺悔(ざんげ)の気持ちは今でもなくならないし、自分はその十字架を背負って生きていかなくてはならない。その気持ちはいつまで経ってもなくならない」

 余談になるが、この事故で自身を責め続けた片山は鬱(うつ)状態に陥り、自宅に引きこもって一歩も外へ出られなくなってしまう。そのときに、片山を温かく見守り、かたくなに閉ざされた精神をほぐして外に向かって再び扉を開こうと働きかけたのが、今中大介をはじめとする自転車仲間だった。現在の片山が、それまでにも増してサイクルロードレースや自転車の普及活動に精力的に取り組んでいるのは、このときの彼らのあつい友情に応えたいという思いが強いからでもある。

「事故当時の大きなショックは時間の経過とともに薄らいではいるものの、絶対に消えることはないし、事実はなくならないし、時間も巻き戻せない......。だから、自分の中でハッキリと思っているのは、死んだ仲間たちの分まで一所懸命やろう、ということ。(登山時の)テントの中で、パリダカのことや環境問題や自分たちの将来の夢をたくさん語り合って、自転車をやるんだと打ち明けたときには、(彼らふたりはレース場に)写真を撮りにも来てくれた。だから、その延長線上じゃないけど、『おい、見てるか。俺たちはついに、こんな高いところまで来ちゃったぞ』って、ふたりに見せてやりたいんだよね」

 そして片山は、そこでひと息ついて少し照れたように微笑み、はぐらかすような明るい口調で言う。

「まあ、だいたい、俺の本当の姿は全然いい人なんかじゃないし、さっき言ったみたいにもともとが利己主義者だからさ、物理的にそういう方向にしていかなきゃいけないんですよ。そういう活動をしていく中で、それが少しでも人の役に立つなら、一番いいじゃないですか」

 冗談めかした口調を続けながら、片山は続ける。

「何をもって幸せとするか......ということは、一概には言いにくいことではあるけれども、たとえば高級車のスポーツカーに乗って、モナコに住んで、ハワイに別荘を買って、いつでもファーストクラスで移動して......というような、そういう生活に価値があるとは僕は思わない。正直なことを言えば、若いころはそんな生活に憧れたことも確かにありましたよ。でも単純に、モノが豊かかどうかが最も大切な価値観だとは、今はまったくもって思わない。

 人は年を取れば、少しずつ考え方が変わっていくものだし、それと関連して、あとは自分の年回り、ということもあるかもしれないですけどね」

 片山が自分自身の過去を振り返ると、F1ドライバーになるという、およそ無謀な夢を抱き、それを実現させるために一心不乱に努力を続けていた時代には、その夢を笑い飛ばさずに耳を傾け、支え続けてくれた人たちがいた。だから、今度は自分が、遠大な夢を抱えながら悶々と努力する若者たちをできる限り支えてやりたい......という思いが、常に心のどこかにある。片山の言う「年回り」とは、そんな役割の巡り合わせを指しているのだろう。

「立場が逆転して、今度は自分が応援する立場になった。自転車の世界でも、自分たちが今、取り組んでいることを次の世代にバトンタッチできるところまで組織やシステムを作りあげ、その上に『哲学』の重しをしっかりと乗っけて、『存在意義』という紙で包装し、『はいよ、俺たちはここまでやったから、あとは君たちが考えろよ』と手渡す。それが、東京オリンピック後の余波が明ける2025年ごろかな、と考えています。

 僕らの仕事は、『2025年から先に何が必要になるのか、それを考えるのは君たちの仕事だよ』と、バトンタッチするところまで。そのときまでに、組織としてのチーム作りと、ビジネスとして成立するためのシステムを完成させ、さらに、『必要とされていなければ淘汰されてしまうんだよ』という哲学の部分も、しっかりと肉付けする。そしてそれは同時に、世界と日本のギャップを詰めてゆくためのツールを作りあげる作業でもあるんです」

(次回に続く)

西村章●構成・文 text by Nishimura Akira