2014年9月中旬のある日、栃木県さくら市の研究所でホンダの2015年型F1用パワーユニットに火が入った。

 もちろん、テストは昨年秋からずっと続けてきた。しかし、1.6リッターの直噴エンジン本体にターボユニット、エネルギー回生システムのMGU-HとMGU-K、そして蓄電のためのバッテリーも取り付けられ、今サーキットを走り回っているF1マシンに搭載されているのとほぼ同じようなかたちでひとつにまとめられた形でテストが行なわれたのはこれが初めてのことだった。

MGU-H =Motor Generator Unit - Heat/排気ガスから熱エネルギーを回生する装置
MGU-K =Motor Generetor Unit - Kinetic/運動エネルギー回生装置

「これまでは、エンジン本体やエネルギー回生システムなど各ユニットを別々にテストしてきましたが、パワーユニット全体の全コンポーネントをフルパッケージしてみてベンチ上で回し始めたところです。去年の秋に最初のエンジンに火が入って、その後に作ったのが(4月の時点でテストしていた)バージョン2で、今、回し始めたのが3つ目のエンジンですね」

 ホンダの「F1プロジェクト総責任者」を務める本田技術研究所の新井康久はそう語る。

 以前、新井は今回のパワーユニット開発について、モノに頼らずにギリギリまで頭脳とシミュレーションで突き詰めてから製作に当たるとしていた。次から次へとモノを作ってテストをするという昔ながらのやり方では、この極めて複雑な新世代のパワーユニット開発はうまくいかないだろうというのがその理由だった。

 そういう意味では、このテストが始まったことによってホンダの2015年用パワーユニット開発は次の段階へと突入したと言っていいのだ。

「昔のようにとっかえひっかえはしていませんけど、もうシミュレーションではなく作ったものでテストをしています。考えに考えたうえで作ったエンジンでテストしているわけです。ただし、そのまま実戦で使うというわけではなく、データを取りながら最終的にどうするかを決めるというプロセスです」

 今、世界のモータースポーツシーンでは、ホンダのF1復帰に対して期待と不安の両方が入り混じっている。2015年3月の来季F1開幕まであと半年。「ホンダの開発は順調に進んでいないのではないか」という噂が囁(ささや)かれ、一方で「初年度から驚異的な性能を発揮するのではないか」という脅威を抱いている関係者も少なくない。おそらく、かつて栄光を極めた時代と、大きな成功を収めることなく迷走のまま終わった2000年代の第3期活動の明暗の差がそうさせているのだろう。

「初年度からメルセデスAMGに勝てる」

 先日、新井のそんなコメントが世界中で報じられた。

「『開発は順調ですか?』って聞かれたから『いろいろありますがスケジュール通り進んでいます。(性能面でも)現状の各メーカーのレベルくらいには』という話はしました。でも、メルセデスAMGに勝つとか負けるという話は一切していないんです。『どこのメーカーもメルセデスAMGを目標にやっているだろうし、我々もそういうふうにやっていますよ』と話しただけなんですけど、あそこまで書かれてしまうのかという感じですね(苦笑)」

 新井自身、初年度から他を圧倒するようなパフォーマンスが発揮できるとは思っていない。F1はそんなに甘い世界ではない。それが、今年の開幕前のテストから度々現地に足を運び、自分の目で各メーカーの進歩を見てきた新井の実感だ。

 1月のテストでは走ることさえままならなかった今季のパワーユニットが、蓋を開けてみれば悠々とレースを走り切り、開幕から半年が過ぎた今では、メーカーごとの差もかなり接近してきている。同じパワーユニットを開発する技術者として「その進歩のスピードには舌を巻く」と新井は言う。同時に、今季のメルセデスAMGが誇っているパフォーマンスを目指すのは「当然だ」とも言う。

「今年苦しんできたメーカーが来年このままということはないでしょうし、実際に性能差は縮まってきています。来年に向けてどのメーカーもメルセデスAMGのパフォーマンスを基準に開発を進めているでしょうし、我々もメルセデスAMGを目標に開発していかないと勝負の土俵に上がれないと思っています」

 2015年の開幕まであと半年。しかし、開幕前のテストが始まるまでは4カ月しかない。初回のヘレス合同テストは2015年2月1日に予定されているのだ。新生「マクラーレン・ホンダ」の初走行は、そこになる。

 11月末の今季最終戦・アブダビGP直後のテストで、マクラーレンがホンダのパワーユニットを搭載して走らせることになるのではないかとの報道もあったが、その時点では本番用のパワーユニットは完成しておらず、2015年型マシンも完成していない。物理的に現実的ではなく、「テスト用パワーユニットを走らせても意味がない」と新井は言う。

 マクラーレンとの間では、すでに車体とパワーユニットの統合について連携を取りながら長きにわたって設計を進めてきている。

 大きく重くすれば、パワーユニットの性能を高めることは簡単だ。しかしそれではマシンとしての運動性能が犠牲になる。冷却に要する気流も膨大で、空力性能も犠牲になる。逆に、車体側の運動性能や空力性能を突き詰めようとすれば、パワーユニットの性能を犠牲にしなければならない。そのせめぎ合いだ。

 裏を返せば、車体に合わせてパワーユニットの設計を変えることも、パワーユニットに合わせて車体を変えることもできる。それが、独占契約のワークス体制で開発を進めることのメリットだ。

 メルセデスAMGのパワーユニットが特殊なコンポーネントレイアウトを採用しているのも、パワーユニット自体の性能追求ではなく、車体側からの要求に理由があると言われている。

「我々もパートナー(マクラーレン)と一緒に開発していますから、その要求によってはもちろんメルセデスAMG方式のレイアウトも考慮に入れています。2015年用のマシンは車体側も我々も、まだ図面上で遊んでいる(いろんなアイデアを試している)段階ですが、結局はガワ(空力性能)が勝負ですから。まずはそれを決めて、それで十分に冷えるかどうかを考えると、パワーユニットの(各コンポーネントの)レイアウトが問題になってくるんです。それもそろそろ決める時期に来ています」

 今週の日本GPでは、巨大なホンダのブースで来季のF1復帰に向けたアピールが行なわれることになっている。鈴鹿サーキットを訪れる大勢のファンの胸中にも、期待と不安が混在していることだろう。彼らの心を打つような走りを見せるため、栃木で日々開発が進められている。

 地元グランプリだからといって、鈴鹿にエンジニアを派遣するようなことはしないと新井は言う。「そんなことをしている暇があるのなら、設計図に向かっていた方がいいですよ」と。

「開発は"予定通り"と言っていますが、それは予定通りたくさんの苦労をしているということでもあるんです。というか、今苦労しておかないと、実を結ばないということです。日々いろんなことが起きますから、課題が山積みで大忙しです。予想通りたくさんの課題が出て来ているし、それをどうするか解決していくとまた次の課題が出て来る。予想外の大きな壁もありました。でも、それは今出てくれないと困るわけです。シーズンに入ってから出ちゃったら大変なことになるんですから。これからまだ山のように出ますよ」

 そう語る新井の表情の奥には、難題に心躍らせる多くのホンダの技術者たちの姿が重なって見えた。

 初走行まであと4カ月。ホンダのF1復帰プロジェクトは、いよいよ最終段階に突入している。

米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki