赤道直下のシンガポールでは、初秋を過ぎても厳しい暑さが続く。肌が痛くなるほどの陽射しと東南アジア特有の湿度に、メカニックたちは汗だくになりながら作業をしている。

 前戦イタリアGPでは前日の木曜日に急きょ駆けつけるかたちになった小林可夢偉だったが、今回は月曜の段階でチームから出場の連絡を受けていた。

「今回は前もって他の誰かが乗るっていうニュースもなかったし、僕が乗るんやろなっていう気はしてましたけどね」

 しかし、可夢偉がドライブするということはチームに資金を持ち込むドライバーがいないということを意味する。スイスと中東の投資ファンドが買収し活動資金は確保されたと言われているケータハムだが、資金繰りは決して順調とは言えないようだ。

 可夢偉が木曜日にマリーナベイサーキットのパドックへやってくると、タイヤ担当メカニックたちがホイールを輸送ケースへと片付けているのが目に映った。本来ならば、ピレリの作業エリアにそのホイールを持ち込んでタイヤをフィッティングしてもらい、セットナンバーなどを書き込んでから、翌日以降の走行に備えてタイヤウォーマーにくるんで保管作業をしているはずの時間だった。

 聞けば、チームからピレリへのタイヤ代金が未払いで、タイヤの供給が差し止められたのだという。金曜までに支払証明書を提出し、フリー走行の3時間前にタイヤは無事届けられたが、今のケータハムが置かれた状況を如実に表す出来事だった。

 このシンガポールGPを前に「無線交信の内容に制限を加える」という議論が、F1界全体で沸き起こり、一時はマシン制御に関するあらゆるやりとりを禁止するという案まで噴出していた。ドライバーが自身の能力でマシンを操るべきだとの考えに基づいたものだが、それゆえに経験値のあるドライバーが有利であり、新人にとってはレースが困難になるのではないかと言われていた。

 しかし、自身が起用されたのはそのためではないだろうと可夢偉は苦笑いする。

「僕を走らせるかどうかは、そういうとこ(経験の有無)は重要じゃないんやと思いますよ。基本的には無線よりも計算機(金勘定)の方が重視されてると思うんで」

 夏休み明けにアップデートが投入されたマシンをイタリアGPで初めてドライブし、可夢偉はパフォーマンスの向上を感じ取っていた。それがイタリアGPとは特性の異なる市街地サーキットのシンガポールでどう生かされるのか、可夢偉はそれを楽しみにしていた。

 だが現実はそう甘くはなかった。

 バンピー(凹凸)で埃っぽい路面に、ケータハムCT05はあちこちで跳ね回ってグリップせず、可夢偉はコクピットでステアリングと格闘することになった。

「なかなかシビレますよ。跳ねすぎて、走っていて気持ち悪くなってきましたもん。曲がらないし、トラクション(加速力)もないし、何もないですね(苦笑)」

 その結果、イタリアGPのモンツァでは上回ることができたマルシア勢にも、再び1秒の差を付けられてしまった。モンツァでケータハムが速かったのではなく、他のチームがダウンフォースを削ったことで差が縮まっただけのことだったのだと可夢偉は結論づけた。

「かなり差が大きいんで、これにはガッカリですね。結局、僕らはダウンフォースがないってことです。こっちの全開ダウンフォースが周りのチームでいうローダウンフォースくらいなんで、(モンツァのような)ローダウンフォースのところにいくと悪くないってことなんでしょうね」

 金曜フリー走行でのデータを元に、可夢偉は今までにやったことがないほどセットアップを大きく変えることにした。言い換えれば、そのくらい厳しいマシン状況だったということだ。

「脚回りを硬くしたとか柔らかくしたとかというよりも、説明できないくらい難しいことをやりました。今までにやったことがないようなことをやったんです。クルマが曲がりやすい方向に大きく変えたと言っていいでしょうね。クルマの挙動は悪くはなってないし良い方向に行ってるけど、特性的に僕らのクルマに合わないサーキットやっていうのが大きかったですね」

 こうしてなんとかクルマのセッティングを合わせ込んだ可夢偉だったが、それでも完璧にはほど遠い状態だった。前後でタイヤの温まるペースが異なり、最初はリアだけがグリップし、リアがタレた頃にようやく温まったフロントがグリップするという、前後のアンバランスに苦しむ。それを予選でうまくいなしてチームメイトを1.7秒も上回るタイムを記録してみせたのは、可夢偉がザウバー時代に同じような問題に対処する術を学んでいたからだった。

「1周アタックをした後で1周休んで(ゆっくり走った後に)、もう1回アタックすれば前後のバランスが取れた状態でアタックできるんです。そうすると、うまく1周がまとめられるっていうことです」

 そんなマリーナベイ市街地サーキットでのドライビングには細心の注意が必要になる。

 エンジントルクが太いうえにダウンフォースが少ない今年のマシンは滑りやすく、滑ればタイヤ表面がオーバーヒートしてグリップを失う。さらに夜の走行とはいえ気温は30度、湿度は80%を下回ることがないので、コクピット内の暑さと湿度がドライバーの体力と集中力を奪っていく。メルセデスAMGのようにスムーズに走ることのできるクルマならまだしも、ケータハムのような跳ね回るマシンでは、ドライバーは必要以上に体力を消耗する。

 体力には自信がある可夢偉でさえ、シンガポールでの2時間に及ぶ61周のレースは厳しいだろうと言う。

「今年一番タフですね。暑いし揺れるしクルマも酷いし、みんなヘロヘロですからね。ホンマにズルズル滑るから、1回ラインを外したりスピンすれば、タイヤがオーバーヒートしてグリップが一気に落ちるし、そのまま次のコーナーでブレーキを踏んだらもうドリフトですから。61周っていうのはキツいと思いますよ、僕的にはそれがちょっと心配ですね」

 だが可夢偉の決勝レースは、1周も走ることなく終わってしまった。

 フォーメーションラップでパワーユニットが不可解な挙動を示し、マシンを停めざるを得なかった。トラブルの詳細は分かっていないが、スターティンググリッドについてからルノーのエンジニアたちがコンピュータを接続して慌ただしく作業を行ない、何度もエンジンに火を入れては止めるということを繰り返していたことと無縁ではないように思われる。おそらくはスタート前からトラブルの予兆が出ていたのだろう。

「まずエンジンパワーがなくなって、何かが燃えているような匂いがして煙が見えて、最後にブレーキがなくなった。それを全部無線で言ったんですけど、何も返事が返ってこないから、勝手に止めました。僕にはどうしようもないし、危なすぎますから」

 そのシンガポールGP決勝での可夢偉のマシントラブルと同様、現在のチーム状況を象徴する出来事があった。

 決勝前夜の24時半、シンガポールには珍しい雨が降り続くなか、ケータハムのホスピタリティユニットには現場の全スタッフが集まっていた。輪の中央にチーム代表マンフレディ・ラベットが立ち、一方的に喋り続ける彼の言葉に耳を傾けるスタッフたちの表情は、真剣なようにも深刻なようにも見えた。

 50分にも及んだその会合にはエンジニアやメカニックからケータリングスタッフまでが作業の手を止めて参加していたが、ドライバーやその関係者はすべて部屋の外に出されていた。

 即時撤退というような事態ではないにせよ、7月のチーム売却以降に数十人のスタッフを解雇し、ドライバーにさらなる持参金の持ち込みを要求するなど、チームの財政事情が容易ならざる状態であることは想像に難くない。こうした状況についての説明が行なわれたものと思われる。

 ラベットは「スタッフたちとの意思疎通を図るための定例のミーティングで、7月に経営陣が変わってから毎月行なっていることだ」と言うが、スタッフには厳しい箝口令(かんこうれい)が敷かれた。実際、「勇気づけられるスピーチだった」とメディアに語ろうとする広報スタッフを別のスタッフが制止して引っ張っていくこともあるなど、尋常ではない雰囲気が漂っていた。

 シンガポールGPの決勝レース直前、スターティンググリッドでは可夢偉のマシンを担当するメカニックやエンジニアたちが自然発生的にマシンの周りに集まり、可夢偉もその輪に呼び入れられて記念撮影が行なわれた。

 いつ最後のレースになってもおかしくない、彼らにそんな思いがあるのかもしれない。ケータハムは最下位から抜け出せず、レースよりも目の前の資金集めに奔走している。可夢偉と同じくレースが好きでレースをしたくてこの世界で戦っている彼らの胸中を思うと、やりきれない思いに駆られる。

「どうなるんですかね!? チームがなくなるんじゃないですか?(笑)」

 可夢偉は冗談めかしてそう言った。もちろん、本気でそう思っていないからこそそう言えるのだろうが......。そんなチームの現状に対して可夢偉は複雑な思いを抱えているはずだが、ただ自分にできることに集中するのみだと語った。

「キレてもお金が降ってくるわけじゃないし、何も始まらないですからね。ある意味、あきらめた者が負け、みたいな感じだと思うんで。いろんなこと言う人もいると思いますけど、怒ってもしょうがないですから。来週の鈴鹿で走れるかどうかはまだ分からないですけど、僕自身は走るつもりで準備していこうと思ってます」

 来週末の日本GP(10月5日決勝)に向けて、チームはまだ誰を走らせるか決めてはいない。ラベットは「最も速いドライバーが走る、それだけのことだ」と言ったが、実際には少しでも多くの資金を手に入れたいというのが本音だろう。そのための駆け引きをギリギリまで仕掛けてくるはずだ。

米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki