木曜の朝、イタリアGPの週末が始まろうとしているというのに、小林可夢偉はまだパリのシャルルドゴール空港にいた。F1ドライバーになってからというもの、木曜日に現地入りするのは初めてのことだ。

 ケータハムF1チームはロベルト・メリというスペイン人ルーキーの起用を画策していたようだが、F1参戦に必要とされるスーパーライセンス取得がならず、断念せざるを得なかった。そこでベルギーGPにも出場したアンドレ・ロッテラーに出場を打診したが、メリに経験を積ませるため金曜フリー走行1回目を明け渡さなければならないという条件に彼は首を縦に振らなかった。

 こうして水曜の朝になってようやく、チームは可夢偉を起用するという結論に達した。この時点で日本にいた可夢偉は、「来てくれ」というチームから依頼を受けて急きょミラノへと飛ぶことになったのだ。水曜日中にヨーロッパへと向かうフライトはもう夜行便しか残されておらず、早朝にパリに着いた可夢偉は寝ぼけ眼のままミラノへ乗り継いで昼前にモンツァへとたどり着いた。

 そのくらい慌ただしい、可夢偉のイタリアGPの始まりだった。

 その道中、ツイッターでは「今の心境なんて聞かないでください」という言葉で複雑な気持ちを表現していた。

「とても嬉しいです、って言うたら嘘になるでしょうね。現場に来たらレースをするのが当たり前やしそれが僕の仕事なんで、そこに関してはモチベーションがどうとかいうことはないですよ。もちろん、もっと時間があればしっかり準備ができたでしょうけどね」

 チームはベルギーGPからマシンを大幅にアップデートしてきていた。しかし、可夢偉が突然シートを失ったスパ・フランコルシャンでは経験不足の若手ふたりのドライブでその効果を引き出し切れず、可夢偉にとってもアップデート仕様のマシン性能は未知数だった。

 FP-1(フリー走行1回目)を新人メリに譲り、可夢偉はFP-2(フリー走行2回目)の90分のみでその新たなマシンの感触を確かめなければならなかった。ストレートが長い超高速のモンツァでは極力ダウンフォースを削った空力パッケージで走ることになる。となればマシン挙動は通常とは異なり、ブレーキングの習熟も必要になる。新しいサーキットでも10周も走れば習得できると豪語する可夢偉でも、モンツァへの適応には時間が必要だった。

 さらには、与えられたタイヤはミディアムとハードのそれぞれ1セットずつしかない。きちんとデータを収集するためには、ミスをしてタイヤを潰すわけにもいかない。まずは最大限にプッシュして限界点を確かめてから徐々に抑えていくという、可夢偉本来のスタイルとは真逆の走りが要求される。

「今までのクルマとちょっとずつ比べながら走って行ったんですけど、タイヤも1セットしかないからブレーキで行き過ぎてロックさせてフラットスポットを作っちゃうと終わりなんで、下から(抑えめに走りながら)ちょっとずつ限界を確かめていくしかなくて。それもあって多少時間がかかりましたね」

 そんな状況で、経験あるドライバーとしてさまざまなことを思案しつつ、可夢偉はチームのために90分間の走行を最大限に生かしたと言っていいだろう。新人2人のコンビでは、ここまでの組み立てはできなかったはずだ。

「レースペースは思ったほど悪くないんで、うまくやれば(他チームと)戦えると思いますね。なので、明日の残り1時間(FP-3)でうまくクルマを仕上げたいなと思います」

 金曜日の走行でロングランペースの仕上がりに自信を持った可夢偉は、次は予選一発の速さを引き出す作業に取りかかった。タイヤへの優しさを残しつつ、最初のピーク性能も引き上げようというわけだ。金曜の夜に導き出したセットアップの変更点を土曜午前のFP-3で最終確認し、いよいよ予選へと臨んだ。

 Q1最後のタイムアタックで2台のケータハム勢が前後に連なって走り、可夢偉はマルシア勢を上回る19番手のタイムを記録した。

「メガラップ!」

 チーム代表のクリスチャン・アルバースも、可夢偉の働きに興奮の様子だった。

 実はこれも可夢偉が機転を利かせたがゆえの結果だった。前を走るチームメイト、マーカス・エリクソンの背後に付いて空気抵抗を減らそうと試みていたのだ。

「引っ張ってもらったわけじゃないんですけど、僕が勝手についていったったんです。このくらいの距離やろなって。ただアイツ失敗しやがったんですよ、レズモ(ターン5)の2個目で。それで砂を撒くし、最終コーナーで思いのほか近付きすぎたし、あれがなかったらもっと効果的やったんですけどね」

 そう言って可夢偉は悔しがったが、自分の仕事ぶりには大きな手応えをつかんでいるのが、その表情から分かった。

 他車のペナルティで18番グリッドを得た決勝は、スタートからミディアムタイヤで果敢に攻め、ハードタイヤを履くザウバー勢に迫る速さで周回を重ねた。マルシア勢はもちろんのこと、ロータスのロマン・グロージャンさえも寄せつけない好ペースだ。

「さすがにザウバーに勝とうとは思ってなかったけど、後ろについて行けてるっていうくらいですね。でもまぁ、これまではザウバーにすら周回遅れにされていましたからね(苦笑)」

 ハードタイヤに換えて相手がミディアムを履く後半は、苦しい展開になるかと思われた。自力に優るザウバーとロータスには先行を許したが、しかしマルシアのジュール・ビアンキを寄せつけず、むしろ引き離していく力強い走りを最後まで続けた。

 17位フィニッシュ。ポイントが欲しいチームにとってはさしたる価値のない結果かもしれないが、今のケータハムが置かれた状況と、この4日間の可夢偉の奮闘を振り返れば、その内容は十分賞賛に値するものだった。

「急きょ駆けつけてチームをサポートしたみたいな形になりましたけど(苦笑)、自分の仕事ができたかなと思いますね。やり切った感はあります。FP-1(金曜のフリー走行)で走れなかった分、ひとつでもリズムを落としたら取り返しが付かなくなるから、目標地点に持っていくために確実に仕事をこなしていかないといけなかったんです。逆に、それが良かったんですね。マルシアやロータスが遅くなったわけじゃないでしょうし、このコースで僕らのエンジンが速いわけじゃないとも思うし、そんな条件の中でこれっていうことは、ステップとしては良かったと思います」

 可夢偉はエースドライバーとしての能力を遺憾なく見せつけた。結果だけでなく、チームを牽引するという面でも可夢偉の存在価値は大きかった。チームの面々もそのことは痛感したはずだ。

 しかし、今後のドライバー選定は能力だけで決まるわけではない。むしろ、チームの財政事情と経営陣の思惑に大きく左右されることになる。

「僕は3人目の補欠ってことでしょ?」

 モンツァにやってきた可夢偉は、自嘲気味に言った。

 ケータハムのエンジニアやメカニックの心境はいざ知らず、今のチーム経営者たちにとってはそれが厳然たる事実なのだから仕方ない。

 しかし、イタリアGPで可夢偉はその力と存在を見せつけた。コンストラクターズランキングを上げるためにレースをするのか、チームとして小銭稼ぎをするためにビジネスをするのか。それはチーム経営陣に対する最大のアピールになり、ドライバー選定に対する問い掛けになったはずだ。

 可夢偉が次のシンガポールGPに出場できるかどうか、それはまだ決まっていない。

「僕は出ろって言われれば出るだけです。サーキットが違えばクルマが良くなってるかどうかっていうのは興味ありますけどね。自分がずっと前半戦にやってきた開発で、おカネがないからって全然できなかったのが、ようやく開発できたらパフォーマンスが上がったというのがモンツァでは証明できたわけですからね。まぁ、このチームがそれをどこまで真剣に考えているかですよね......」

 その問い掛けに対して、次はケータハムのチーム経営陣が答えを出す番だ。

 モンツァのレースを終えて、可夢偉はふと呟いた。

「レースがしたいなっていう気持ちになりましたね。下位チームで争うんじゃなくて、ポイントを争う戦いとか、そういうレースがしたくなった」

 その言葉が、モンツァの週末が可夢偉にとっていかに充実したものであったかを物語っていた。

 シンガポールGP、そして鈴鹿での日本GPで、可夢偉が走る姿を見られることを祈りたい。

米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki