厄介な映画「魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」の叛逆
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』に魅了されています。
ぼくはどうしようもなく好きで仕方ない。
もうなんなの、この超少女至上主義映画。
最高じゃん。
●回る少女と、見たかった世界
このアニメ、回るんです、何度も。
もともと『まどか☆マギカ』は、回るものが多かった作品。主に歯車。
今回は少女たちが、自分で回っています。ダンスしかり、コーヒーカップしかり、銃撃戦しかり。
回転自体は時間のループとか深読みできるんですが、少女が回転するのを、楽しんでいる。
バレリーナ。回転は少女の喜びの表現。
「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」をクラシックバレエから考察してみた(エキサイトレビュー)
少女が回ると、たくさん円ができるんです。
円は完璧な世界だよ。だから見ていて気持ちがいい。
でも完全なすぎるものって、時としていびつ。
マミさんがTV版で話していたあの例の単語が頭をよぎります。
ズレの中でくるくると回る少女達の姿は、ぼくの「見たかったもの」でした。
これがある一点を超え、不自然なものに変わるのが、もぞもぞ心に来てならない。落ち着かない。
確かに、派手な表現の見せ場はあります。
だけど、ジワジワ不自然さが増していく描写にこの映画は力を入れている。それが見ていて、心をかきまぜます。
●ティーパーティとおもちゃと世界の境界線
女の子といえばお菓子。マミさんの出番だ!
「女の子ってなんでできてる? おさとうとスパイスと すてきなものみんな」
マザーグースを直球で、文字通りに映像化しているのが、『まどか☆マギカ』だなーとしみじみ感じます。
かわいい。ガーリー。
お菓子を中心とした食べ物は、「かわいい」。
でも、特に今回の食べ物、美味しくなさそうなのが多いんだよ。
序盤の料理と、ラストのティーカップとリンゴは顕著。
もう一つガーリーさに欠かせないのは、劇団イヌカレーによる不思議な美術。切り絵だったりパペットだったりねんど人形だったり。テレビよりマシマシで今回半分以上珍妙な空間になっていた気がします。
イヌカレー空間は「かわいい」のですが、同時に不安定。
「怖いもの」と「かわいいもの」は表裏一体ではなく、地続きなのをちゃんとわかって見せてくれるから、興味が刺激されます。
「可愛いもの(ぬいぐるみ)は怖いもの(死体)に、怖いものは可愛い物にかぎりなく接近する。いいかえればわれわれは可愛いものの中に怖いものを、怖いものの中に可愛い物を見ることができるようになったわけである」
(1994年 銀星倶楽部「ぬいぐるみ」より)
そもそも、出てくる魔法少女って、そういえば魂を抜かれたゾンビという設定でした。
間違いなく女の子達はぼくにとって「かわいい」。そして同時に、死のにおいがする「怖いもの」であり「哀しいもの」。
『叛逆の物語』が描くガーリーな世界は、ぼくの中にあった「かわいい」と「怖い」の世界の境界線をグチャグチャにしてくれました。
これが気持ちよくて、何度も見たくなってしまう。
●少女の世界は狭い
もともとなんですが、この作品、とにかく大人が少ない。
まともな指針になっていた大人は、まどかのお母さんくらいでしょう? 先生はちょっと違うし。
加えて、メインキャラ達は魔法少女同士でいることでいっぱいいっぱいなので、クラスメイトともそこまで一緒にいないし、年上のつながりはさらにない。
ぼくが魅力を感じていたのは、少女たちの視野がとにかく狭いこと。世界に全然目を向けようとしていない。正確には、向けることすらままならない。
しかも「男」がいないのね。まどかパパは主夫になっていて、男性を感じさせないし、唯一出ているのが、さやかが思いを寄せていた上条恭介だけ。
この「女の子だけ」になることで、視野の狭さに拍車がかかる。秘密を共有した世界を、女の子同士で産んでしまう。
その空間に入る入らないじゃなくて、入れる気が微塵もしない。
なのに、その狭い視野の世界に、強制的にぶち込んでくるから、ゾクゾクする。
今回の映画の、あの人間の数の少なさには愕然としたよ。視野はそんだけなの!?と。
一回はそのまま見て、視野の狭さを体感。
二回目以降はネタ探ししているうちに、キュゥべえ視点になっていました。
ぼくは少女の世界を見て、それをコレクションしたいんだな、と。
それを見ていると、ふと澁澤龍彦的な『少女コレクション』的な視点が頭に浮かびます。
「こういうのを見ていたい」という、ぼくにとって都合のいい、コレクションしたい女の子像。
もっともあまりにも理想的なのには、ちゃんとわけがあるのですが……それと別にして、ぼくは彼女らを、完全にキュゥべえみたいに消費する視点で見ていました。
そりゃ気持ちいいはずだよ。ひどい話だ。
●叛逆する少女
『まどか☆マギカ』という作品を見る時、ぼくは「かわいそう、かなしい」と思いながらも、残酷な視線を少女たちに向けている。
なぜ女の子達がこんなに悲しい目にあうんだろう?とか言いながら、心をくすぐられて夢中になっている。今回も。
虚淵 かわいい女の子に大変な宿命を負わせたり、ひどい目に遭わせることにかけては西尾さんのほうが先輩ですよね?
西尾 「まどか☆マギカ」を、なかなか見られなかったんです。ぼくはかわいい女の子がひどい目に遭うシーンを見るのに抵抗があるので……。
虚淵 えええーっ!?
西尾 確かにぼくもいろいろひどいことは書いてきましたけれど、一応守りたいラインはあるんです。「ここから先はエンターテインメントにはならない」というラインが。
(ニュータイプ11月号より)
やっぱりこういうライン、あるんです。
ひどい目にあわせたい。でもここから先はエンタメにならない。
そういう意味では、今回の「叛逆の物語」は、エンタメだったとぼくは思う。
だけど、成長した時、少女は、物語の支配から解き放たれます。
ある意味それは、観客であるぼくへの叛逆だった。ハッピーな展開か、バッドな展開か。そんなレッテルへの、叛逆。
それを感じて、ぼくは魅入られてしまったし、受け付けない人の間で賛否両論起きるのも分かる。
キュゥべえが地球の少女を選んだのが、叛逆するほどのエネルギーだからなのは、ぼく自身に跳ね返ってきます。
しかも、成長を望みながらも、「少女」であることに留まっているんだものなあ。少女自身が。
暴れまわるんだけど、それは少女の箱のなかで、あくまでもぼくはその箱に引きずり込まれているだけ。
そりゃキュゥべえさんにもなっちゃうよ。
辻村深月:言ってみたら私も余生なんですよ。少女だった時に、少女Aや少年Aになり損ねて生き残ってしまって。(中略)多くの人にとって人生って何なのかって語られる時、少女時代は生い立ちとして処理されてしまって、その人がなんの職業をしていたかっていう大人時代が人生っていうものの中身の全部であるっていう風に語られることが多いと思うんですけど。だけど、その少女時代に自分の一番鋭かった感性を置いてきて……あそこに囚われ続けていて、あそこが人生の中身だと思ってもきっと良いんだよなと思った。
(夜想「少女」より)
成長の中で、成長を拒む思考。「少女の時代」が人生の中身で、成長とは大人になることではなくそれを思い出す余生が成長すること、という視点の作家がいるのは面白い話です。
少女のままでいることが大事。
この考え方を、魔法少女という形に写し、ほむらは同じ時間をループする。
まどかグッズを買い、少女を箱に入れてコレクションしているつもりが、気づいたら自分が振り回される側になっていた。
彼女たちの闘いは、自分の独立の闘いではない。安野モヨコ作品的な強さではない。
作られた少女の箱の中の存在ではあるんです。そのはずなのに、なんでぼくはその少女たちにぶん回されているんだ?
「わけがわからないよ」というキュゥべえさんのセリフは、ぼくのセリフでした。
結局少女に勝てないし、勝てないことが嬉しくすらある。かわいいジェットコースターに乗ってたいんだよ。
少なくとも、彼女たちはずっと少女のまま。
それが嬉しいキュゥべえがいて、同調するぼくがいる。
くそう、厄介な映画だ。
この厄介な体験、映画館でしてほしい。
ひとつ言えるのは、『きらら☆マギカ』連載作品をはじめとした、二次創作マンガを見るたびに、洒落にならない感情が湧いてしまうことに気付かされる、ということ。
そして、間違いなくあらゆる二次創作が書き換えられていくであろうことです。
とんでもないもん作ってくれましたよ、スタッフさん。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語【通常版】』
ハノカゲ 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 (1)』
(たまごまご)
ぼくはどうしようもなく好きで仕方ない。
もうなんなの、この超少女至上主義映画。
最高じゃん。
●回る少女と、見たかった世界
このアニメ、回るんです、何度も。
もともと『まどか☆マギカ』は、回るものが多かった作品。主に歯車。
今回は少女たちが、自分で回っています。ダンスしかり、コーヒーカップしかり、銃撃戦しかり。
回転自体は時間のループとか深読みできるんですが、少女が回転するのを、楽しんでいる。
バレリーナ。回転は少女の喜びの表現。
「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」をクラシックバレエから考察してみた(エキサイトレビュー)
少女が回ると、たくさん円ができるんです。
円は完璧な世界だよ。だから見ていて気持ちがいい。
マミさんがTV版で話していたあの例の単語が頭をよぎります。
ズレの中でくるくると回る少女達の姿は、ぼくの「見たかったもの」でした。
これがある一点を超え、不自然なものに変わるのが、もぞもぞ心に来てならない。落ち着かない。
確かに、派手な表現の見せ場はあります。
だけど、ジワジワ不自然さが増していく描写にこの映画は力を入れている。それが見ていて、心をかきまぜます。
●ティーパーティとおもちゃと世界の境界線
女の子といえばお菓子。マミさんの出番だ!
「女の子ってなんでできてる? おさとうとスパイスと すてきなものみんな」
マザーグースを直球で、文字通りに映像化しているのが、『まどか☆マギカ』だなーとしみじみ感じます。
かわいい。ガーリー。
お菓子を中心とした食べ物は、「かわいい」。
でも、特に今回の食べ物、美味しくなさそうなのが多いんだよ。
序盤の料理と、ラストのティーカップとリンゴは顕著。
もう一つガーリーさに欠かせないのは、劇団イヌカレーによる不思議な美術。切り絵だったりパペットだったりねんど人形だったり。テレビよりマシマシで今回半分以上珍妙な空間になっていた気がします。
イヌカレー空間は「かわいい」のですが、同時に不安定。
「怖いもの」と「かわいいもの」は表裏一体ではなく、地続きなのをちゃんとわかって見せてくれるから、興味が刺激されます。
「可愛いもの(ぬいぐるみ)は怖いもの(死体)に、怖いものは可愛い物にかぎりなく接近する。いいかえればわれわれは可愛いものの中に怖いものを、怖いものの中に可愛い物を見ることができるようになったわけである」
(1994年 銀星倶楽部「ぬいぐるみ」より)
そもそも、出てくる魔法少女って、そういえば魂を抜かれたゾンビという設定でした。
間違いなく女の子達はぼくにとって「かわいい」。そして同時に、死のにおいがする「怖いもの」であり「哀しいもの」。
『叛逆の物語』が描くガーリーな世界は、ぼくの中にあった「かわいい」と「怖い」の世界の境界線をグチャグチャにしてくれました。
これが気持ちよくて、何度も見たくなってしまう。
●少女の世界は狭い
もともとなんですが、この作品、とにかく大人が少ない。
まともな指針になっていた大人は、まどかのお母さんくらいでしょう? 先生はちょっと違うし。
加えて、メインキャラ達は魔法少女同士でいることでいっぱいいっぱいなので、クラスメイトともそこまで一緒にいないし、年上のつながりはさらにない。
ぼくが魅力を感じていたのは、少女たちの視野がとにかく狭いこと。世界に全然目を向けようとしていない。正確には、向けることすらままならない。
しかも「男」がいないのね。まどかパパは主夫になっていて、男性を感じさせないし、唯一出ているのが、さやかが思いを寄せていた上条恭介だけ。
この「女の子だけ」になることで、視野の狭さに拍車がかかる。秘密を共有した世界を、女の子同士で産んでしまう。
その空間に入る入らないじゃなくて、入れる気が微塵もしない。
なのに、その狭い視野の世界に、強制的にぶち込んでくるから、ゾクゾクする。
今回の映画の、あの人間の数の少なさには愕然としたよ。視野はそんだけなの!?と。
一回はそのまま見て、視野の狭さを体感。
二回目以降はネタ探ししているうちに、キュゥべえ視点になっていました。
ぼくは少女の世界を見て、それをコレクションしたいんだな、と。
それを見ていると、ふと澁澤龍彦的な『少女コレクション』的な視点が頭に浮かびます。
「こういうのを見ていたい」という、ぼくにとって都合のいい、コレクションしたい女の子像。
もっともあまりにも理想的なのには、ちゃんとわけがあるのですが……それと別にして、ぼくは彼女らを、完全にキュゥべえみたいに消費する視点で見ていました。
そりゃ気持ちいいはずだよ。ひどい話だ。
●叛逆する少女
『まどか☆マギカ』という作品を見る時、ぼくは「かわいそう、かなしい」と思いながらも、残酷な視線を少女たちに向けている。
なぜ女の子達がこんなに悲しい目にあうんだろう?とか言いながら、心をくすぐられて夢中になっている。今回も。
虚淵 かわいい女の子に大変な宿命を負わせたり、ひどい目に遭わせることにかけては西尾さんのほうが先輩ですよね?
西尾 「まどか☆マギカ」を、なかなか見られなかったんです。ぼくはかわいい女の子がひどい目に遭うシーンを見るのに抵抗があるので……。
虚淵 えええーっ!?
西尾 確かにぼくもいろいろひどいことは書いてきましたけれど、一応守りたいラインはあるんです。「ここから先はエンターテインメントにはならない」というラインが。
(ニュータイプ11月号より)
やっぱりこういうライン、あるんです。
ひどい目にあわせたい。でもここから先はエンタメにならない。
そういう意味では、今回の「叛逆の物語」は、エンタメだったとぼくは思う。
だけど、成長した時、少女は、物語の支配から解き放たれます。
ある意味それは、観客であるぼくへの叛逆だった。ハッピーな展開か、バッドな展開か。そんなレッテルへの、叛逆。
それを感じて、ぼくは魅入られてしまったし、受け付けない人の間で賛否両論起きるのも分かる。
キュゥべえが地球の少女を選んだのが、叛逆するほどのエネルギーだからなのは、ぼく自身に跳ね返ってきます。
しかも、成長を望みながらも、「少女」であることに留まっているんだものなあ。少女自身が。
暴れまわるんだけど、それは少女の箱のなかで、あくまでもぼくはその箱に引きずり込まれているだけ。
そりゃキュゥべえさんにもなっちゃうよ。
辻村深月:言ってみたら私も余生なんですよ。少女だった時に、少女Aや少年Aになり損ねて生き残ってしまって。(中略)多くの人にとって人生って何なのかって語られる時、少女時代は生い立ちとして処理されてしまって、その人がなんの職業をしていたかっていう大人時代が人生っていうものの中身の全部であるっていう風に語られることが多いと思うんですけど。だけど、その少女時代に自分の一番鋭かった感性を置いてきて……あそこに囚われ続けていて、あそこが人生の中身だと思ってもきっと良いんだよなと思った。
(夜想「少女」より)
成長の中で、成長を拒む思考。「少女の時代」が人生の中身で、成長とは大人になることではなくそれを思い出す余生が成長すること、という視点の作家がいるのは面白い話です。
少女のままでいることが大事。
この考え方を、魔法少女という形に写し、ほむらは同じ時間をループする。
まどかグッズを買い、少女を箱に入れてコレクションしているつもりが、気づいたら自分が振り回される側になっていた。
彼女たちの闘いは、自分の独立の闘いではない。安野モヨコ作品的な強さではない。
作られた少女の箱の中の存在ではあるんです。そのはずなのに、なんでぼくはその少女たちにぶん回されているんだ?
「わけがわからないよ」というキュゥべえさんのセリフは、ぼくのセリフでした。
結局少女に勝てないし、勝てないことが嬉しくすらある。かわいいジェットコースターに乗ってたいんだよ。
少なくとも、彼女たちはずっと少女のまま。
それが嬉しいキュゥべえがいて、同調するぼくがいる。
くそう、厄介な映画だ。
この厄介な体験、映画館でしてほしい。
ひとつ言えるのは、『きらら☆マギカ』連載作品をはじめとした、二次創作マンガを見るたびに、洒落にならない感情が湧いてしまうことに気付かされる、ということ。
そして、間違いなくあらゆる二次創作が書き換えられていくであろうことです。
とんでもないもん作ってくれましたよ、スタッフさん。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語【通常版】』
ハノカゲ 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語 (1)』
(たまごまご)