【F1】名門フェラーリを支える日本人エンジニア、浜島裕英の存在感
日中は強い陽射しと高い湿度に襲われる赤道直下のシンガポールだが、午後7時を過ぎて太陽が沈むと海からの風が少し涼しげに感じられるようになる。
シーズンで唯一のナイトレースとして開催されるシンガポールGPは、それよりも遅い午後8時に決勝のスタートが切られる。
「今年は涼しいよね。昨日も今日もこんな温度だからね」
レース週末を目前に控えた木曜の夜、フェラーリの浜島裕英エンジニアは、ピットレーンに吹く風を感じながら言った。
そして話題はすぐにタイヤのことになる。リアタイヤに厳しいこのマリーナベイ・サーキットでは、タイヤをいかに使いこなすかが勝負のカギであり、大きな懸案事項だからだ。
「こんなに涼しいとミディアムタイヤは厳しいかもしれない。ワーキングレンジ(作動温度領域)が高くて温まりが悪いですからね。涼しいくらいならいっそ、雨でも降ってくれた方がいいくらいです......」
浜島は少し弱気な表情を見せた。この週末にはスーパーソフトとミディアムという2種類のタイヤが持ち込まれている。
タイヤに優しいフェラーリのマシンは、レースでタイヤを長くもたせることができる反面、走り始めに熱が入りにくい傾向がある。涼しいコンディション下では、それが顕著に出てしまう恐れがあったのだ。
夏休み明けから2戦連続で2位表彰台を獲得したフェラーリのフェルナンド・アロンソだったが、特殊な空力パッケージから通常のハイダウンフォースパッケージに戻したこのシンガポールGPの予選は6位。首位のレッドブルのみならずメルセデスAMG、そしてロータスの後塵を拝することになった。
「マシンのパフォーマンスは十分ではないし満足ではないけど、今回持ち込んだ新パーツがきちんと機能してくれたことには満足しているよ」
アロンソは予選順位に落胆の色を見せながらも、「7月からマシン開発の不発で被った遅れをようやく取り戻せそうだ」と語った。アロンソのマシンには新型フロントウイングなどいくつかのアップデートパーツが投入され、小さいながらも効果は着実に得られていたからだ。
その一方で、決勝のスタートを前に浜島は語った。
「今年は例年以上にタイヤのデグラデーション(性能低下)が大きいからたいへんです。タイヤの使い方によってはレース展開が変わるかもしれないですね」
これまで低速だったターン10のシケインが中高速コーナーに変更されたり、路面が部分的に再舗装されてグリップが向上したり、マシンそのものの進化も相まって、ラップタイムは昨年に比べて1周3.5秒も速くなっている。その分、タイヤに大きな負荷が掛かり、性能低下を加速させることになったのだ。
チームからの戦略指示に、アロンソは聞き返した。
「あと何周走ることになるんだ?」
それに対してチームは、ここでピットインして走り切る作戦に賭けることを説明した。
「あそこから最後まで走り切るというのは、多少ギャンブルでした。最後の方はイチかバチか。交換した古いタイヤの摩耗度合いをチェックしてデータ予測をしたら、ギリギリ行けるかどうかだったんです」(浜島)
残り36周で、首位ベッテルから4位までのレッドブルの2台とメルセデスの2台は、タイヤ交換でもう一度ピットストップが必要となる。一方、3位から5位に落ちたアロンソは、上位4台がピットストップをする間に、無交換で走り切って前に出ることを目指す。それが成功すれば、優勝の可能性も見えてくる。
そのギャンブルに乗ってみる価値はあるとアロンソは思った。というよりも、今の自分たちはギャンブルに打って出るしかないと確信していた。
「リスキーな賭けだった。あのタイヤで最後まで走り切るのは簡単じゃなかったよ。でも、セーフティカーが入った瞬間に、僕らはその戦略に決めたんだ。
僕らはチャンピオンシップで首位のレッドブルに60ポイントも差をつけられていて、失うものなんて何もない。今日の戦略がうまくいかなかったら2位ではなく4位か5位でレースを終えていたかもしれないけど、勝てる可能性があるならそこに賭けるしかない」
その結果、アロンソは、首位ベッテルこそ追い抜けなかったものの、ピットストップをしたメルセデスの2台とマーク・ウェバー(レッドブル)の前に出ることに成功して2位に浮上。リアタイヤのホイールスピンとスライドを最小限に抑えながら、タイヤに負荷を与えないように走り続けた。
懸念していたタイヤのデグラデーションも思いのほかひどくはなかった。そして、アロンソは巧みにタイヤをいたわりながら走り切って2位でチェッカーを受けた。ギャンブルに勝ったのだ。
「素晴らしい表彰台獲得だ。この2位は僕らにとって勝利に値するよ」
アロンソは満足げな表情を見せた。
タイヤ戦略が見事に功を奏した浜島は、意気揚々と表彰台の下からガレージに戻ってくると、チームスタッフたちとがっちり握手を交わした。
「もう1回ピットインが必要かとも思いましたが、ラップタイムが割と良かったので、そのまま最後まで行かせることにしました。フェルナンドも『最後の3周くらいはツラかった』と言っていましたが、後ろにいたマクラーレンやザウバーに助けられました。彼らのおかげでウェバーやメルセデスの追い上げが遅くなりましたから」(浜島)
懸念していたミディアムタイヤの温まりも、大きな問題にはならなかった。フェラーリは、ブレーキの熱を使ってタイヤのウォームアップを改善するための新パーツを投入していたようだ。
「マシンが少しは改善しているってことじゃないでしょうか」
浜島は真っ赤なシャツの襟元に汗を滲ませながら、笑顔で言った。だが、マシンにまだ十分な速さがないことも分かっている。
「今日は実力から言えば5位が良いところだったと思います。5位か6位だったでしょうね。他のチームの戦略ミスと運に助けられましたね」
控えめにそう言ったが、つまるところ、シンガポールGPでのフェラーリの2位は、タイヤ戦略の賜物だった。夏休みが明けてから、アロンソが2位に入り続けている理由はそこにある。アロンソが「我々は4番手のチーム」と言うほどマシン性能に不利を抱えているフェラーリにあって、レース中も常にタイヤのデータに目を凝らし、上位浮上のカギとなるレース戦略を支える浜島の存在は大きい。
タイヤに厳しいシンガポールで、フェラーリはあらためてそのことを痛感したに違いない。
米家峰起●取材・文 text by Yoneya Mineoki