私たちは、あまりにビジネス社会からくる効率・実用・功利主義の影響を受けていて、曖昧さを避け、揺らぎを嫌い、具体・客観・論理を奨励する。しかし、これはあくまで一方向への視点に過ぎない。



◆曖昧なことを曖昧に考える力
 「考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである」。―――ゲーテ『格言と反省』(高橋健二訳『ゲーテ格言集』より)

 ドイツの文豪ゲーテが、同時に優れた自然科学者であったことはあまり知られていない。形態学の創始や色相環の発明など、その合理的、論理的、客観的な思考によって科学の面でも人類に数多くの貢献を残している。そのゲーテにとって、やはり「この宇宙とは何か?」「人間とは何か?」そして「神とは何か?」は、生涯を懸けて取り組んだ“大いなる問い”であった。その問いに対し、ゲーテは、“大いなる合理的・論理的・客観的思考”をもって解明をしようとしたが、ついに答えは出せなかった。出せなかったというか、最終的には「不可知である」という結論にたどり着いた。
 彼は不可知であるという謙虚な前提に立ち、今度は“大いなる曖昧な思考”でもってこの宇宙をとらえ、人間をとらえ、神をとらえた。そして、大いなる示唆・暗示に富む戯曲『ファウスト』を書き上げた。この歴史的名作は、以降、“読める人が読めば”無尽蔵にその深遠さを与えてくれる文学として光彩を放っている。

 今日私たちがこの『ファウスト』を読むことに困難を覚える理由として、キリスト教の観念・知識が乏しいから、昔の外国の文章だから、あるいは高尚すぎるから、といったことをあげるかもしれない。それらは一部の理由としてあるだろう。しかし私は、本質的な理由はそこにあらずと思っている。真の理由は、端的に言ってしまえば、「曖昧に考える力」を失くしたからである。


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