女性よりも男性を出世させがちな「石器時代の脳」
私たちは石器時代には優秀な戦士や狩人になれたであろう身体的特徴をもった男性を、現代の指導者に選ぶ傾向があるそうです(画像:taa/PIXTA)
横暴に振る舞う上司、不正を繰り返す政治家、市民を抑圧する独裁者。この世界は腐敗した権力者で溢れている。
では、なぜ権力は腐敗するのだろうか。それは、悪人が権力に引き寄せられるからなのか。権力をもつと人は堕落してしまうのだろうか。あるいは、私たちは悪人に権力を与えがちなのだろうか。
今回、進化論や人類学、心理学など、さまざまな角度から権力の本質に迫る『なぜ悪人が上に立つのか:人間社会の不都合な権力構造』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。
履歴書の評価に見られるバイアス
10年ほど前、名門大学の科学者たちが、研究室管理者の職に応募した学生たちを評価するように依頼された。
彼らのもとに履歴書が送られた。彼らは用意された評価書を使い、応募者を採点して、資格や技能や経験に基づいて初任給を提案する必要があった。
「私たちは、学部生が科学の分野でのキャリアを進めるのを助ける、新しい指導プログラムを創設している、というのが表向きの説明でした」と、スキッドモア大学准教授のコリーン・モス=ラクシンは私に語った。
「私たちは教員たちに、研究室管理者職への応募書類のそれぞれについて、率直なフィードバックをしてくれるように頼みました」
教員たちは知らなかったが、履歴書は偽物だった。応募者の資質はさまざまで、この仕事にふさわしい人も、ふさわしくない人もいたが、肝心な操作が行われていたのは、冒頭だった。
捏造(ねつぞう)した履歴書には、男性と女性の名前のリストからランダムに選んだ名前が書かれていた。だから、同一の履歴書が、サラあるいはアレクサンダー、デイヴィッドあるいはアン、ジェイムズあるいはケルシーによって提出されたものに見えた。
違いはそれだけだった。それ以外は、応募者の資質は均等に分布するようになっていた。
公正な世界では名前は評価には関係がないはずだ。だが、私たちは公正な世界には暮らしていない。
教員たちの評価は、一貫して男性の応募者を高く採点し、提案する初任給の額も多かった。評価をしている教員が男性であろうと女性であろうと、違いはなかった。彼らは全員、女性に対する偏見を見せた。
そのような長年の性差別に、社会はゆっくりと目覚めつつある。だが、まだ肝心の疑問に答えが出ていない。そのバイアスは、文化的に学習されただけなのか、あるいは、女性差別も、私たちの有史以前の過去に根差しているのか?
太古から現代までの性差別の例
人間が歴史を記録しはじめて以来、その記録から女性は締め出されてきた。
ケンブリッジ大学教授のメアリー・ビアードは著書『舌を抜かれる女たち』で、太古から現代までの性差別の無数の例を紹介している。
古代の世界では、女性が権力を手にしなかったというだけではなく、女性に権力を与えるという考え方そのものが馬鹿げた概念と見なされることが多かった。
ビアードが説明しているように、紀元前4世紀には、「アリストファネスが喜劇をまるごと1つ費やして、女性が政権を奪取するという『滑稽(こっけい)極まりない』夢想を描いている。その滑稽さの1つは、女性が公衆の前で適切に話せないことだった」。
ビアードが際立たせているが、女性が権力の座に祭り上げられたときには、3つのことの1つが起きがちだった。
第1に、そうした女性は男性的だと評される。つまり、できるかぎり男性を真似したときにだけ、権力の獲得を目指すことができるというわけだ。
第2に、そうした女性がしゃべると、動物が「吠えている」とか「キャンキャン言っている」というふうに描かれる。人間の言語による発話という男性の才能を発揮することが、身体的に不可能というわけだ。
そして第3に、彼女らは狡猾(こうかつ)で他者を巧みに操る、権力の強奪者とされる。そして、どうにかして権力の座にたどり着くと、その権力を濫用するという。
2000年ばかり時間を早送りしても、こうした性差別的な言葉は、相変わらず残っている。それがあまりにひどかったので、1915年にはフェミニストの著述家シャーロット・パーキンズ・ギルマンは、『フェミニジア』という小説を書かずにはいられなかった。
この小説の舞台は空想の世界で、そこでは女性たちはもっぱら女の子を産む。男性は存在しない。女性が統治している。ギルマンが想像したユートピアには、戦争も、他者の威圧もない。
女性のほうが指導者にふさわしい?
言っておくが、『フェミニジア』は若干極端に見えるけれど、より多くの女性を指導者の地位に昇進させるのは、公正であるばかりでなく、賢くもあることを、山のような証拠が示している。
ジェンダー本質主義者になるのを避けることは重要だ(ジェンダー本質主義は、男性と女性は根本的かつ相容れないかたちで得意なことと不得意なことがあるとする。女性に対する抑圧を維持するために、何世紀にもわたって使われてきた見方だ)。
だが、平均すると女性のほうが男性よりも独裁的になりづらく、民主的な方法での支配に熱心であることが、多くの研究によって実証されている。
また、想像しうるかぎりのリーダーシップの指標のほぼすべてで、女性は男性と同等以上の成績を収めるというのも本当だ。
ここには皮肉にも、他の要因が絡んでいるかもしれない。それは、現代の男性優位の社会で、女性がトップレベルの役割に行き着く難しさだ。
女性は頂点に上り詰めるまでに男性よりも多くの壁にぶつかるので、出世した女性は、間違ってトップまで来てしまったような凡庸な男性よりも優秀かもしれない。
頂点にたどり着く難しさに見られるこの違いが、データの偏りを生むことがありうる。少数の優秀な女性と、平凡な人が少なくとも一部を占める男性とを比較しているからだ。
要するに、権力を振るうことに関して、男性である利点がないことは明らかだ。それなのに、社会はそのような利点がたしかに存在しているかのように振る舞う。
政治指導者に関して、性別による違いがどれほど奇妙か、少し考えてほしい。
ウラジーミル・プーチンは、まるで時計で計ったかのように定期的に、上半身裸で乗馬しているところや、柔道の稽古をしているところや、その他のかたちで戦士のように力を誇示しているところの写真を公表する。
このようなシグナルが効果を発揮しうるのは、私たちの石器時代の脳が、リーダーシップの資質を身体的な大きさと結びつけて捉えている面が依然としてあるからだ。
だが、これは馬鹿げている。あなたが外科手術を受けるところを想像してみよう。担当の外科医が、頼んでもいないのに腕立て伏せを20回やり、自分の優れた身体能力を示したとする。あなたは別の外科医を見つけるとともに、おそらく、最初の外科医に医師免許を授与した機関に通報するだろう。
だが、政治指導者となると、現代社会は男性的な強さの誇示に報いることが多い。
進化のミスマッチのせいで、そのようなシグナルは今やまったく意味がない。なにしろ、たいていの人が覚えているように、アンゲラ・メルケルとジャシンダ・アーダーンは、現代屈指の有能な政治家だったのだから。この2人がベンチプレスでどれだけ持ち上げられるかなど、誰であれ、気にするべきだろうか?
進化心理学の説はみな論争の的になるので無理もないが、リーダーシップにおける性差別が石器時代の脳と結びついていることを、仮にあなたが疑っているにしても、文化的な女性差別の範囲の外にまで及ぶ、さまざまな研究結果を無視するのは、さらに難しい。
男性らしい顔に対する偏向した気持ち
現代のコンピューター画像処理技術のおかげで、研究者はきわめて正確に顔の画像を操作できる。1回クリックするだけで、顔の典型的な男性らしさを強めたり弱めたりすることが可能だ。
そこで、こう考えた研究者たちがいた。ある人の写真を撮り、そこから受ける男性らしさの度合いをわずかに高めたら、その顔に対する私たちの気持ちはどう変化するだろう?
男性らしさと、それに対する気持ちとの関係は、あなたが思っているほど単純ではない。リーダーシップについての実験では、女性の顔よりも男性の顔のほうが頻繁に選ばれる。これは、あなたの予想どおりだろう。
だが、リーダーシップにまつわる選択の実験の参加者が、紛争のリスクや継続中の戦争といった、安全保障上の脅威に対抗する指導者を選ぶように言われたときには、興味深いことが起こる。これらの実験では、男性らしさの効果が増大するのだ。
実験からは、私たちは危機に際して、より男性らしく見える指導者を無意識に好む可能性が高まることがわかる。不合理ではあるが、その効果が本物であることをデータが示している。
「サバンナ仮説」による説明
ファン・フフトはこの見方――石器時代には優秀な戦士や狩人になれただろう身体的特性を持った男性を、現代の私たちが指導者に選ぶ傾向があるという見方――を、「サバンナ仮説」と呼んでいる。
「進化は、私たちを導く者のテンプレートのセットを私たちの脳に焼きつけた。そして、(たとえば、戦時のように)協調が必要とされる具体的な問題に遭遇したときにはいつも、それらのテンプレートが作動する」と彼は説明する。
権威主義的な有力者が、恐れを搔き立てたり対立を引き起こしたりして権力基盤を固めるのも、それが一因だ(「有力者」、つまり「力を有する者」という言葉があるのは、けっして偶然ではない〔訳注 「有力者」に当たる原書の言葉は「strongman」、すなわち、文字どおりには「力の強い人」〕。
彼らは、脅威に気づいたときには強そうに見える人を頼みとするという私たちの狩猟採集民の本能を作動させているのだ。
私たちは、リーダーシップにまつわる偏見に満ちた性差別的なこれらのテンプレートが、自分たち(あるいは、少なくとも私たちの多く)の内には存在しないふりをすることもできれば、その存在を認めて、それを克服する努力をすることもできる。
だが、その努力を始めても、それは戦いの一端でしかない。自分たちの性差別的な文化によって学習したり悪化したりした内なる女性差別も、克服しなければならないからだ。
サバンナ仮説は、男性指導者を好むバイアスにだけかかわるものではない。もしこの仮説が正しいのなら、私たちはただ男性に引かれるだけではなく、大柄で、堂々たる体軀の男性に引きつけられるだろう。
そして、まさにそのとおりなのだ。権力を手に入れるには、背が高いと有利だ。そして、それは今に始まったことではない。
(翻訳:柴田裕之)
(ブライアン・クラース : ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン准教授)