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気になる映画があったとき、その作品を観る・観ない、映画館に行く・行かないをどのように決めているだろうか? SNSなどの口コミか、それともRotten Tomatoesのスコアか。

『ゴッドファーザー』シリーズや『地獄の黙示録』(1979)の巨匠監督フランシス・フォード・コッポラは、批評家や観客のレビューを数値化して「フレッシュ」と「ロッテン」の2つに分けるRotten Tomatoesや、映画館での出口調査をもとに「A+」から「F」の7段階で作品を評価するCinemaScoreを厳しく批判している。

のインタビューにて、「Rotten Tomatoesのスコアで映画の成功が左右されることをどう思いますか?」と問われたコッポラは、「Rotten TomatoesやCinemaScoreといったスコア・システムは映画をコントロールしようとしている」と答えた。

「映画は芸術であり、制御を受けるべきものではありません。しかし、(スコア・システムは)映画をスポーツのように扱っている。スポーツの試合にはチームの勝ち負けがあり、それがファンの行動をコントロールする側面があります。現代の映画産業も、人々がどのように映画を観に行くかをコントロールしようとしているのです。なぜなら、人々はお金をムダにしたくないからです。」

しかし、コッポラは「本物の芸術にはリスクがつきものです。リスクを背負わずに芸術を作ることはできません、未知の世界に飛び込むのだから」と言う。「これは現在機能しているシステムとは相容れないものです。映画産業はリスクを望まず、映画をコカ・コーラのようにしたがっていますよね。人々が同じものを何度も買い続けられるように」。

フランシス・フォード・コッポラ Photo by Gerald Geronimo https://www.flickr.com/photos/g155/5980409834/ Remixed by THE RIVER

本来は数値化できないはずの芸術が、どういうわけか数値化され、そして観客の行動がコントロールされている──。このコメントは、同じく巨匠監督マーティン・スコセッシが2017年に執筆したと響き合っている。スコセッシは1980年代以降、興行収入が映画に関する議論を支配するようになったあと、映画のオープニング興行収入は「血に飢えた観客たちのスポーツ」になり、映画批評が壊れはじめたと書いている。

「CinemaScoreのような市場調査会社や、Rotten Tomatoesのようなオンラインの“集積所”は、本物の映画批評とは一切関係がありません。彼らは競馬場にいる馬、あるいはレストランや家電製品のように映画を評価しており、映画ビジネスには関係してはいても、映画の創造や知的鑑賞とはまるで無関係です。

調査会社や“集積所”は、フィルムメイカーをコンテンツメイカーに、観客を怠惰な消費者に貶めることで、真剣な映画製作者にはふさわしくない状況を生み出している。Rotten Tomatoes(腐ったトマト)という名前も侮辱的です。映画史に精通した、情熱をもつ人々による映画批評が消滅するにつれ、性急な判断の声がどんどん大きくなり、映画ファンやフィルムメイカーが拒絶され、否定され、ときにはひどく攻撃されているように思えるのです。」

マーティン・スコセッシ Photo by THE RIVER

映画監督・脚本家のポール・シュレイダーも、2023年に「(スコア・)システムは壊れており、観客はバカになっている」と率直に。「普通の人は以前のようにレビューに目を通さなくなり、スタジオはRotten Tomatoesをゲームにしている。自分が撮った映画のレビューを読むと、書き手が私の失敗だと思ったところでも、私にはそこが面白いということもある。それは私にとって良い批評ですが、Rotten Tomatoesでは否定的なレビューに数えられてしまいます」。

興行収入やスコア・システムに権力があるということになった今、作品も批評もことごとく単純化され、その単純化された評価や数字によって観客はコントロールされている。しかしコッポラやスコセッシ、シュレイダーは、そうした“単純化”には回収できない部分、あるいは相反するところにこそ映画や芸術はあるという。

結局のところ、これは「私たちは何のために映画を観るのか?」ということなのかもしれない。映画を観るかどうかをRotten Tomatoesのスコアしだいで決めるとき、私たちはなにを他者に委ね、得体の知れないシステムに手渡しているのか、ということだ。

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