鎌倉殿・源頼朝の死因「暗殺説」は素人考え!?そして様々な病死説…研究者はこの問題をどう考える
記録されていない「頼朝の死」
鎌倉時代の後期に成立した史書『吾妻鏡』では、源頼朝は落馬が原因で亡くなったとされています。
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1198年(建久九)の師走、頼朝は相模川に架けられた橋の開通式に参列しましたが、その帰り道に稲村ヶ崎近くで落馬して、そのケガが原因で翌年の1月に亡くなったというのです。
しかし、この話をめぐっては、かねて疑問の声があがってきました。
そもそも『吾妻鏡』には、鎌倉幕府にとっての最大重要事件である頼朝の死について詳しく記録されていないのです。
『吾妻鏡』には、平安末期の源頼政の挙兵から87年間にわたる出来事が日記体で記されているのですが、頼朝の死については、その死から13年も後に「落馬したのがもとで亡くなり」と触れているにすぎません。
神護寺蔵 伝源頼朝公肖像
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暗殺説から病死説まで
こうして、頼朝暗殺説は、昔から「いかにもありそうな話」として伝わってきました。
古くは1695(元禄8)年に成立した『東鑑集要』に、「頼朝の薨去(こうきょ/貴人が死去すること)を隠すと見へたり」とあり、『吾妻鑑』が、何らかの理由で死を隠蔽しようとしたかのように思わせるような一文が見えます。
こうして、頼朝の死をめぐっては「好色が原因で、妻の政子に殺された」という痴情のもつれ説など、さまざまな異説が唱えられてきました。
源頼朝と北条政子像
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そのなかには、北条氏による「暗殺説」もあります。
代表的な、北条氏「主犯」説はこういうものです。頼朝は、橋の開通式に参列した際、主催者の稲毛重成に毒を盛られてそれが原因で帰路に落馬しました。その重成は、北条時政の意を受けて実行したというのです。
ただし、現在の歴史家でこの説をとる人はまず存在しません。暗殺説はどれもこれも荒唐無稽なものとみて差し支えないでしょう。
目下、有力とされているのは糖尿病原因説です。鎌倉時代に書かれた近衛家実の『猪隈関白記』に、頼朝は「飲水の重病」(現在でいう糖尿病)だったと記されているのが、その一番の根拠となっています。
落馬によるケガがもとで持病の糖尿病が悪化し、亡くなったとみる研究者もいます。
それ以外の説としては脳卒中説、あるいは受傷後の破傷風説など、いろいろありますが、中には頼朝が水を飲んだことが原因で死亡したとするものもあります。
というのは、落馬は脳虚血発作によるものでいったんは回復したものの、療養中に水を誤嚥し、肺炎から敗血症をきたして死亡したのではないかというものです。
この説によるならば、頼朝の死は今でいう誤嚥性肺炎だったということになるでしょう。
暗殺説は「素人考え」
暗殺説について考える際に注意しなければならないのは、『吾妻鑑』には、あくまでも頼朝の死に関する詳細な内容が「記載されていない」というだけで、暗殺を示唆するような文言は一切存在しないということです。
『吾妻鏡』(吉川本)右田弘詮の序文(Wikipediaより)
何も記載されていないという状況から「暗殺だったに違いない」と推測するのはあくまでも憶測にすぎず、学術的な視点から見れば結局のところ「正式な死因は不明」と考えるしかありません。
明確な証拠や手掛かりもないままに暗殺説に飛びつくのはある種の陰謀論ですし、実際、日本史学界でも、本能寺の変や坂本龍馬暗殺事件の「真相」「黒幕」の話題について盛り上がるのは素人と見なされる傾向があります。
源頼朝の死については、まともに考えれば暗殺説は単なる空想に過ぎませんし、さまざまな史料を参照すれば「病死」説が一番有力だということになるでしょう。
参考資料:
テーマパーク8020
nippon.com
画像:photoAC,Wikipedia