「引退も視野に入れていた」阪神・藤川球児新監督が明かす、あのタイガース復帰を後押しした「二人の言葉」

写真拡大 (全4枚)

プロ野球・阪神タイガースの次期監督に藤川球児氏の就任が決まった。的確な解説でも人気を博した新しい虎将、その現役時代のエピソードを改めて振り返りたい。藤川氏の「火の玉ストレート」の誕生秘話から引退試合の最後の1球までを語り尽くした著書『火の玉ストレートプロフェッショナルの覚悟』から抜粋・再構成して紹介しよう。ファンを大いに沸かせた、2016年の阪神タイガース復帰。その背景には、元チームメイト2人の強い後押しがあったという。

視野に入っていた「現役引退」

アメリカから帰国して間もなく、火の玉ストレートの健在を証明するため再びマウンドに上がった僕は、目的さえ達すればユニフォームを脱ぐつもりでいた。

高知ファイティングドッグスへの入団に際して、阪神を含む複数のプロ球団からのオファーを断った以上、右腕一本で自分の存在を証明するのみ……それが僕なりのけじめのつけ方と考えていたのである。

だが、僕は再びタテ縞のユニフォームに袖を通すことになった。

阪神を愛していたから……。そう言えればファンのみなさんにも喜んでいただけるのだろうが、正直なところ、そうとも言い切れない。もちろん、阪神に対する個人的な愛情は深い。だが、プロ野球選手としての僕にそうした感情はいっさいなかった。

いつのころからか、僕は「藤川球児という個人」と「プロ野球選手としての藤川球児」を意識的に区別してきた。それは公私の別に近い。

どちらも藤川球児というひとりの人間なのだが、マウンドに立つ僕とプライベートな僕とでは、現実に行動原理が異なる。

そこを区別することで、僕は多くのファンから夢を託される重圧に耐えてきたのだろうし、自分のなかの別人格を意識することによって、ある種の緊張感をキープすることができたのだと思う。

高知ファイティングドッグスの一員として再びボールを握ったとき、昔、斎藤雅樹さんに憧れていたころの自分を思い出した。

ただ楽しく野球ができさえすれば、ほかには何もいらない。心からそう思っていたころの僕が、プロ野球選手としての藤川球児より大きな存在になっていた。そうして楽しかったころの野球の感覚を全身で再び味わっていたとき、プロ球団から再びオファーをいただいた。

プロから誘いを受けながら独立リーグを選択したとき、僕はプロ球団側のプライドに傷をつけている。そう自覚していたから、あらためて声をかけてくれたことに、僕はこれ以上ない冥利を覚えた。

だが、僕は迷っていた。プロ野球選手としての藤川球児は、すでに戦意を失いつつあった。自分は、周囲の期待に応え得る選手なのだろうか。復帰するなら、どの球団を選ぶべきなのか。

「おまえは阪神に来なあかん」

このとき、心を決めかねていた僕を阪神へと力強くたぐり寄せてくれたのは、翌2016年から監督として指揮をとることになっていた金本さんだった。

金本さんが現役を引退したのは2012年で、ちょうど同じころ、僕も海外FA権を行使して阪神を退団した。仮に、僕が翌シーズンから復帰すれば、阪神を外から眺めていた時期が金本さんとぴったり重なる。偶然とはいえ、妙な因縁を思わせる不思議なタイミングだった。

僕は、引退も視野に入れつつ、複数のオファーをフラットな気持ちで検討していることを正直に打ち明けた。すると、金本新監督は「あかん」と短く否定した。

「あかん、一緒にやるぞ。球児、おまえは阪神に来なあかん」

僕の人生なのに、と内心、苦笑いしながら、僕はいかにも金本さんらしい言葉に深い配慮を感じていた。

昔から、僕は思い込みが少ないほうで、比較的、広い視野でものごとを考えることができた。だが、それは決断力の弱さにも通じる。長所と短所はコインの裏表といわれるように。

悩んでいる僕にそうした一面を感じ取った金本さんは、あえて強引に僕を阪神へ引っ張ろうとしてくれたのだろう。もちろん、それが阪神や金本新監督だけでなく、僕自身にとっても最善と信じたからに違いない。

そして、当時の坂井信也オーナーやOB会の川藤幸三会長からも同様に強く誘っていただき、僕の心は動いた。

そして、最終的に僕の背中を押してくれたのは、矢野さんである。

ご承知のとおり、現役時代の矢野さんとは最も多くバッテリーを組んだ。そのこともあって、僕は矢野さんが僕以上に僕自身のことを理解してくれていると感じていた。

しかも、当時、矢野さんは大学時代から仲がよかった金本新監督のもとでバッテリーコーチ(兼作戦コーチ)に就任することが取り沙汰されていた。

某球団の面談を断ったわけ

ある日、矢野さんに時間を取ってもらうと、僕はすべてを率直に話した。

「一緒に戻ろうや」

最後まで僕の話に耳を傾けてくれた矢野さんは、そう僕を誘ってくれた。

「じつは、おれもちょうど球団に返事してきたところやねん。金本も戻る。おれも戻る。球児も戻って、またみんなで野球やろうや」

その言葉を聞いて、僕の心は決まった。

このときの僕は、矢野さんなら必ずそう誘ってくれるに違いないと、ひそかに期待していたのかもしれない。

アメリカでの経験によってプロフェッショナルな野球の世界に失望しながら、一方で、このまま終わってたまるかという意地が雪辱の機会を求めていた。何か大きな力によって甲子園のマウンドに引き戻されたような、不思議な感覚だった。

こうして僕は古巣への復帰を決意したのだが、正直に告白すると、その過程の僕はややアンフェアだった。

頂戴したオファーについては、私情をはさむことなく、偏りのない目で検討することを課していながら、小さな手加減を加えてしまったのだ。ある球団だけは、面談さえ断ったのである。

当時、その球団では超大物と表現すべき人物がGMの職にあった。入団交渉がはじまれば、当然、GMが出席する。その場面を想像して、僕は失礼を重々、承知しながら、面談の申し出を断った。

お会いするのがこわかったのである。GMから「うちで一緒にやろう」と誘われたとき、僕には断る自信がなかった。それくらい、その方の野球哲学や人格に抗し切れない魅力を感じていた。

もちろん、このときGMとの面談が実現していたとしても、僕は阪神を選んだかもしれないし、実際のところはわからない。ただ、面談さえしなかった球団を選ぶとは思えないから、そうした点でも僕は阪神との不思議な縁を感じている。

「阪神コーチ陣の弱体化は避けられない。だが…」藤川球児が《実は興味があまりなかった》監督を引き受けた「裏事情」