わたしの辞書には「欲しい」がなかった(写真:Tommy/PIXTA)

"生きづらさ"の正体ってどこにある?

TBSラジオ人気Podcast番組「となりの雑談」でジェーン・スーさんと桜林直子さんが時間をかけて丁寧に言葉を交わしてきた内容から「生きるヒント」を紹介。

書籍『過去の握力 未来の浮力 あしたを生きる手引書』より一部抜粋して、お届けします。

苦手だった「将来の夢」を語ること

<サクちゃんの話>

欲しいものを欲しいと言えない環境で育ったわたしが苦手だったのが「将来の夢」です。「将来何になりたいですか」とか、「今後の目標は何ですか」という問いかけに、いつも答えられませんでした。

まだ見つかっていないという感覚とは違い、未来にいいことが待っていると思えず、ただただ「わからない」としか言えませんでした。

夢や目標という本来あるべきものが「ある人」と「ない人」の「ない人」側にいつも振り分けられて、自分に欠陥があるように思えて自信をなくすことがしばしばでした。

「ないものはないから仕方がない」とあきらめるのはもはや自分のクセで、自分の欲や望みがよくわからない。このままでは行きたい場所に行けることは一生ないと、突如気がついたのが30代半ばです。

目の前の問題に対処し続け、その結果「あれ、ここ来たかった場所じゃない」となるのはもうこれ以上は嫌だな。強くそう思いました。

そこでひとつの仮説を立てました。

わたしは夢も目標もないし、「あれが欲しい」と言えない。それは、「望んでもどうせ手に入らないから」と早々にあきらめて、自分で「欲しい」と認めることすらできないからでは? まず「欲しいって言っていいよ」と許可したら言えるんじゃないか? と。

自分にもともと備わっている性格や性質を変えるのは難しいけれど、自分の中に「やり方」の仕組みを導入すれば、性格は変わらないまま行動を変えられる。あとはやるだけ。それならできそうに思えました。

当たり前のように「これ欲しい」「あれやりたい」と言える人が“ネイティブ素直”だとすると、あとから頑張って自分の欲を知り、外に出す努力をするのは“クリエイティブ素直”。

「素直じゃない」と言われ続けたわたしが後天的に素直になれるかどうかの実験のようなものでした。

言うだけはタダだから

具体的に何をしたかというと、「じゃあどうしたいの?」という問いを自分に投げかけました。

たとえば、困ったなという局面は生活していると大なり小なりあるものですが、わたしの場合、「まあしょうがないか」と、限られた手の中のカードで解決するのがおなじみの処し方です。

そこで、実験として、「どうすればいいか」と対処する前に「どうしたい?」「どこに行きたい?」としつこく問いかけてみることにしました。

すると、はじめは「どうせ言っても叶わない」という声が邪魔して、どうしたいかを出すのが苦しく、怖いと感じました。

それでも、「叶わなくても言うだけはタダだから」「何を望んでも誰にも迷惑かからないから」と、だましだましハードルを下げると、「本当はこうしたい」「あっちの方角に行きたい」が少しずつ湧き上がってくるようになりました。

問いがなければ「仕方がない」の精神で物事を進めてしまうところを、あえて一旦立ち止まる。「本当はどうしたいんだっけ?」と、自分にワンクッション挟み込む。

いつも「仕方がない」とあきらめることで進んできたけど、「望んでOK」の許可を出すと、少しずつ自分が望むものが見えてくるようになりました。

不思議ですよね。自分のなかにも「こうしたい」「あれが欲しい」「こっちの方向に行きたい」という願望がちゃんとあったんです。なかったのではなくて、無視していただけだったのですね。

望む方向が見えると、当然ながら、そちらの方向に向かって人生のハンドルを切れるようになります。

それまでは、周りを見渡すこともなく、ひたすら目の前の少ない選択肢に向かってきました。素敵な人を見ても「自分には関係ないことだ」と、うらやむことすらできませんでした。

でも、望めばできる、手に入る可能性があるという感覚を得て、むしろ望まないと手に入ることはないのだ、選択肢は自分で増やすものなのだとそのとき初めて知りました。目の前の世界がひらけたようでした。

いつも「素直じゃないね」と言われてきました。「欲しいものは?」と聞かれた際に何も答えられないからです。

答えられないと、「本当は欲しいのに欲しくないふりをしてる」と受け取られてしまう。でも本当のところ、答えられないのは欲しいものが自分でもわかっていなかったからだと今ならはっきりと言えます。

欲をまっすぐ出せない「素直じゃない人」だったのではなく、その手前で、欲を許可できない、自分でも知らない状態だったのです。

自分に許可を出せるようになってからは、欲しいもの、望むものがわかるようになって、わかりさえすれば、素直に口にできるようになりました。

自分の欲望をナメるな

<スーさんの話>

私はこれまであちこちで「自分の欲望をナメるな」と書いたり話したりしてきました。

これはどういうことかと言うと、「欲しいものがわからない」「したいことなんてない」という人にも、心の奥底に「やりたい」「やりたくない」などの欲望があり、それらをないものとすると、あとから大きな負債になりかねないと思うからです。

大きな負債とは、俗に生きづらさと言われるものです。

ところがサクちゃんと話すなかで、欲望にはもうひとつ手前の段階があることを知りました。

自分に欲望があるということを認め、欲望を持つことを許可する段階。そのステップを踏まないと自分の欲望にたどり着けない人がいることを、私はサクちゃんから教えてもらいました。

びっくりした。そうか、自分で自分に規制をかけているのか。

そういうこと、私も過去にしていたことがあります。「私なんかがこれをやったら恥ずかしい」とかね。

「欲望」をきれいに言うと「夢」になると思います。「将来、モデルになりたいという夢があります」と言ったほうが、「将来、モデルになりたいという欲望があります」と言うより耳心地が良い。これは一般的に「欲は持つと恥ずかしいもの」と思われているからでしょう。

そんなことないのにねえ。

さて、夢があるほうがいいという言説が世の中にはあふれていますが、正直なところ私自身、夢がありません。

でも、それで全然困らない。自分のことを情けないとも思いません。

生きていくうえで欲望がないわけではないのです。将来叶えたい「夢」は特にないというだけ。やりたくないことはすごくハッキリしています。これも欲望のひとつ。でも、たまに「やりたくないこと」を棚卸しして、やってみて「意外と楽しかったな」と発見したり、「やっぱりこれは私がやりたいことではないな」と納得したりしています。楽しいです。

RHYMESTER の「ONCE AGAIN」という曲の中で、宇多丸さんは「夢」というのは別名「呪い」であるとラップしています。

夢は時に自分を縛る呪いにもなりうるという意味だと、私は理解しています。負けている賭け事から降りられなくなってしまうような状態も、そのうちのひとつだと思います。

そもそも、夢がある人のほうが志が高いように見えたり、夢がないというだけで残念な人扱いを受けたりするのって変な話。

だって他人の人生じゃん。

夢に向かって努力をする人は素晴らしいし、邪魔にならない程度に応援したいけれど、そっちのほうの価値が高いとされることに、私はとても懐疑的です。なぜなら、夢トラップ(罠)があるからです。

夢に向かって頑張っています!

「夢に向かって頑張っています!」

そう言うだけで、周囲から素晴らしいと賞賛されるでしょう? ときに、人はその状態に酔ってしまうんだな。叶えたいという主体性よりも、周囲からどう見られるかに意識がいってしまう。

また、「夢がある!」という状態は居心地がいいので、そのままモラトリアムに突入してしまうこともある。


で、具体的に何をしているの? と行動を見てみると、特に何もしていないというか、まあ「夢に向かって頑張ってる」って言いたいだけでしょ、それ。みたいなことがないとは言えない。恐ろしいのは、自分ではそこに気づきづらいことです。

夢があることを公言すること自体はなんら問題がないと思います。

でも、そこに他者の目(周りからどう見られるか)を介在させてしまうと、本当はそんなにやりたくなかったとあとから気づいても「夢、追いかけるのやーめた!」と言うのに勇気が必要になってしまう。

自分と夢が一対一の関係にあれば、それを持ち続けるも手放すも自分次第なのだけれど、夢があると言ってしまった手前あとに引けない状況に陥ってしまうと、夢は呪い。

夢は小さく分解して「目標」くらいにしておくのが、夢のトラップにハマらない秘策だと思います。分解したほうが、欲望はハッキリしてくるから。夢なんかあってもなくてもいいし、でも自分の欲望は「やりたくないこと」を含めてわかっていたほうがいいし、でも「やりたくないこと」もたまに棚卸ししてトライしてみる。

そういう微調整が生きやすさにつながってくると私は思うのです。

(ジェーン・スー : 作詞家、コラムニスト)
(桜林 直子 : 作家)