登壇した講演が散々な結果に…アルツハイマー病の進行を妻に実感させた講演会での「驚愕の出来事」
「漢字が書けなくなる」、「数分前の約束も学生時代の思い出も忘れる」...アルツハイマー病とその症状は、今や誰にでも起こりうることであり、決して他人事と断じることはできない。それでも、まさか「脳外科医が若くしてアルツハイマー病に侵される」という皮肉が許されるのだろうか。
だが、そんな過酷な「運命」に見舞われながらも、悩み、向き合い、望みを見つけたのが東大教授・若井晋とその妻・克子だ。失意のなか東大を辞し、沖縄移住などを経て立ち直るまでを記した『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子著)より、二人の旅路を抜粋してお届けしよう。
『東大教授、若年性アルツハイマーになる』連載第29回
『「アルツハイマーという病気の認識が、がらりと変わった」…読者を驚嘆させたインタビューで認知症の東大教授が語った「深い話」』より続く
散々に終わった講演会
こんなわけで2009年9月、私たちは初めて、ふたりで演壇に立つことになりました。最初の講演は横浜でしたが、いま思い出しても冷や汗が出ます。
演題は「若年性アルツハイマー病と共に生きる」。
まず私たち夫婦が司会者と対談を行ったのち、私が「認知症早期発見、治療への期待」と題して話す、という構成でした。事前に会場を下見し、主催者の先生ともお目にかかって綿密に打ち合わせをしていたのですが、講演は思わぬ展開となりました。
「司会者が晋に質問する」という単純なことが、どうしてもうまくいかないのです。
講演が一向に進まない...
晋は一見、普通の紳士でした。当時は「東大教授」の肩書も記憶に新しい……。だからこそ、だと思うのですが、司会者には〈病気のことをストレートに尋ねていいのか〉という迷いがあるようでした。
しかも、たとえば「どう感じておられますか」と質問されても、晋はなかなか答えられません。自分で自由に発言内容を決められる問いに、テンポよく反応できなくなっていたのでした。
目の前には大勢の聴衆。一向に進まないやりとりを、固唾をのんで見守っています。
私は壇上、晋の横に並んで座っていましたが、彼が固まっているのが見なくてもわかりました。私も緊張していました。かわいそうと思いつつも、手を貸す余裕などありません。
真っ暗闇のなかを歩くような頼りなさを感じました。きっと彼もそうだったでしょう。晋は一言も発することなく、演壇を後にすることとなりました。
再び舞い込んだ講演依頼
初めての講演とはいえ、散々な結果に終わった以上、もう頼まれることはないだろう――そう思っていたのですが、不思議なもので、しばらくするとまた電話で講演の依頼が入りました。
「主人は、壇上での質問には何も答えられなかったんです」
あわててそう伝えたのですが、
「大丈夫です、ご心配なく」
とのこと。認知症の人と上手にコミュニケーションをとる技術を身に着けた研修委員の先生が、司会を務めることになっているそうです。そんな方がサポートしてくださるなら大丈夫ではないか。安心したものの、晋の意向が気になります。
「一応、本人に尋ねてからお返事します」
私はいったん電話を切りました。そして、
「晋さん、神戸の『いのちの電話』から、講演お願いしますと言ってきたよ。どうするの」
「行くよ」
元気な大声でした。
横浜講演のことが尾を引いているに違いないと思っていましたが、私の取り越し苦労だったようです。本人がやりたいと思うことは、できるだけやらせてあげたい。ましてや、私たちのような者に声をかけてくださるだけでも、ありがたい。
すぐに受話器を手に取り、「行きます」と折り返しました。
『アルツハイマー病の方から“すらすらと”言葉を引き出す会話術!病状を理解して歩み寄る、その話し方とは』へ続く