大阪メトロ谷町線の野江内代駅は「難読駅名」として知られる(撮影:伊原薫)

地下鉄の路線は、ほとんどが道路の下を通っている。その理由は、一言で言えば「用地確保を容易にするため」だ。

地下鉄ならではの事情がある

地下に鉄道路線を建設する場合、一般的にはその地上にあたる部分の土地を買収するか、使用料を払わなければならない。だが、地下鉄が通るような都市部ではその交渉は容易でなく、また費用もかなりのものとなる。

そこで、国や自治体の所有地である道路の下を通すことで、これらの課題をクリアするという手法が一般的だ。

【写真】駅構内や周辺の様子。大阪メトロにいくつかある「難読駅」のなかでも屈指の駅名の誕生には地元の悲願が背景にあった(16枚)

ちなみに、2001年に大深度地下使用法が施行され、地下40m以深かつ支持地盤の上面から10m以深においては鉄道をはじめ河川や送電線など公共用途のトンネルを、土地所有者への補償を行うことなく設置することができるようになった。

また、鉄道路線とその上の道路を一体的に整備するという例も全国で見られる。大阪市が建設した地下鉄御堂筋線はその代表例で、もともと幅6m程度の道路だった御堂筋を、地下鉄建設に合わせて幅44mにまで拡幅。大阪市のメインストリートとなり、その沿線は大いに発展した。

ところで、道路は町界となっていることも多く、その下に駅を設ける場合には「駅名をどうするか」がしばしば問題となる。この解決方法にはいろいろあるが、もっとも穏便(?)なのは「両方の地名を合体させる」というものだろう。

Osaka Metro(大阪メトロ)の谷町線は、この“合体駅名”が数多くあることで知られている。最も有名なのは、南側エリアにある喜連瓜破(きれうりわり)駅だろうか。

喜連瓜破と野江内代

難読駅名としても知られる同駅は、喜連2丁目と瓜破2丁目の境界に位置する。一部の列車が始発・終着駅としていることから、列車の行先表示にも出現。駅周辺には「喜連瓜破店」という名の店舗が点在するなど、もはや一つの地名として認識されている。

一方、谷町線の北側エリアには合成駅名が4つ続く区間がある。そのうちもっとも都心寄りに位置するのが、今回紹介する野江内代(のえうちんだい)駅だ。


大日―八尾南間(28.1km)を結ぶ谷町線では22系と30000系が活躍中(撮影:伊原薫)

野江内代駅は、1977年に谷町線が都島駅から守口駅まで延伸した際に開業した。この区間には野江内代、関目高殿、千林大宮、太子橋今市と4駅が並ぶが、なかでも野江内代駅は喜連瓜破駅と双璧をなす、大阪メトロ随一の難読駅名と言ってよい。


野江内代駅の駅名標。同駅から大日方面へ関目高殿、千林大宮、太子橋今市と合成駅名が続く(撮影:伊原薫)

「とくに、読みに『ん』が入るというのが難しいですよね。私もお客様に聞かれたことがあります」と話すのは、同駅の駅長を務める本並康裕さん。

とはいえ、周辺に観光地や大規模商業施設があるわけでもなく、駅を利用するのは地元の人たちが大半。名前について気にすることはほとんどないという。「ただ、難読駅名としてメディアで取り上げられているのを時々目にしますし、その時はちょっと嬉しく思いますね」。

駅長に聞く「どんな街?」

本並さんは東梅田副管区駅長という立場で、谷町線の中崎町―関目高殿間(天神橋筋六丁目駅を除く)を担当している。若者や外国人観光客の多い中崎町駅や周辺にマンションが立ち並ぶ都島駅と違い、ここは“大阪の下町”という言葉を連想させる街並み。梅田エリアから10分弱という立地ながら、どこかのんびりとした雰囲気が漂う。

「顔なじみのお客様も多く、朝夕の挨拶だけでなく、休日に『ちょっと遊びに行ってくるわ』と声を掛けてくれることもあります。私が以前に勤務していた梅田駅などにはない、アットホームな雰囲気がここにはあって、お客様と接する楽しさややりがいを感じています」

駅から東へ10分ほど歩いたところにはJR野江駅が、さらにその先には京阪の野江駅がある。少し距離があるため、乗り換え客はほとんど見られないという。「住んでいる皆様は目的地に合わせて使い分けておられるようです」。

野江内代駅の乗降人員は約1万1000人で、谷町線の天王寺駅以北では最少。同線で最少の田辺駅(約9000人)と比べても、それほど変わらないレベルだ。

駅の構造も、改札口は1カ所、地上に通じる出入り口は道路を挟んで東西に1カ所ずつと、いわば“最小構成”。谷町線の列車は6両編成だが、ホームは将来の増結を見据えて8両対応となっており、使われていない部分はほかの駅と同様、柵で区切られている。

駅構内に漂う昭和感

近年にはトイレのリニューアルが行れたものの、ホームや改札口付近は開業当時の雰囲気を残していて、いかにも『昭和の地下鉄駅』といった感じだ。


野江内代駅の改札口は1カ所。自動改札機3台というコンパクトな構成だ(撮影:伊原薫)

「私は、東梅田駅を拠点として業務を行いながら各駅を巡回しています。各駅とも個性があり、スタッフもお客様が快適にご利用いただけるような工夫をいろいろとしていますので、そういった点にも注目していただきたいです」

ところで、野江と内代はもともと2つの村の名前だった。明治時代に関目村と共に合併して東成郡榎並村(後に榎並町)の大字となり、1925年には大阪市に編入されて東成区に。1932年に東成区が分割されると、旭区の区域となった。ここまでは同じ道を歩んだのだが、1943年に大阪市が22区制を敷いた際、野江と関目は城東区、内代は都島区と袂を分かち、現在に至る。


東側の出入り口の所在地は城東区野江四丁目(撮影:伊原薫)

こうした合成駅名の場合、「どちらの地名を先にするか」がしばしば議論となる。野江内代駅は、駅長室の場所が内代町側にあることから所在地が「内代町一丁目」とされており、「内代野江駅」となっていてもおかしくはない。だが、谷町線の計画が具体化した際、駅に付けられた名前は「野江駅」だった。


西側の出入り口の所在地は都島区内代町一丁目(撮影:伊原薫)

歴史をさかのぼると、京阪の野江駅は1910年の開業当初、野江内代駅のすぐ北側にあったのだが、内代の地名が駅名に入れられることはなかった。同駅は1931年のルート変更によって現在の位置に移転。名実ともに“野江の駅”となる。

それから約半世紀後、再びこの地に駅ができることになったものの、その駅名もやはり「野江」。これでは内代という名が埋もれてしまう。そこで、内代町の人々は立ち上がった。駅名に内代の名を入れるべく、町会役員を中心に一大キャンペーンを展開。市会議員の協力も得ながら、交通局や市役所への陳情などを精力的に行った。

内代町の人々の悲願

果たして、3年間にわたる活動が実を結び、同駅の名前は野江内代駅と定められたのだが、内代町の郷土史によると「それでも駅の看板が出るまでは心配で心配で、夜寝ながら駅名を暗唱していた」そうだ。内代町の住民の、開業当日の喜びは相当なものだったに違いない。

そして、それをうかがわせるものを内代町で見つけた。駅から600mほど離れた内代公園にあったのは、地下鉄の開業を記念した石碑。ぜひとも自分たちが住む地の名を駅名に入れたい……内代町の人々が熱望し、その願いがかなった証しが、この記念碑なのだ。


内代公園に建つ「地下鉄開通記念碑」(撮影:伊原薫)

一方の野江側には、榎並猿楽の発祥地であることを示す石碑がある。猿楽とは能の母体となった中世芸能であり、古くからこの地が栄えていたことがわかる。

何の変哲もない駅と、ごくありふれた風景に見える街並み。だがしかし、少し歩けば歴史の息吹が感じられる。普段なにげなく使っている駅の周辺を、たまにはぶらぶらしてみるのもよい。


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(伊原 薫 : 鉄道ライター)