沖縄水産を1990、91年夏の甲子園で連続して準優勝に導くなど、沖縄の高校球界の礎となった故栽弘義氏

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 パリ五輪の卓球女子で団体銀メダル、シングルで銅メダルを獲得した早田ひな(24)が羽田空港での記者会見で鹿児島の特攻隊資料館を訪れたいと話した。そんな彼女の言葉に、1985年8月15日、沖縄水産の故栽弘義監督がお立ち台で流した涙を思い出した。

 今年も“熱い夏”が戻ってきた。「第106回全国高等学校野球選手権」が甲子園で開幕。14日に行われた2回戦・大阪桐蔭(大阪)−小松大谷(石川)では、優勝候補の一角といわれた夏の甲子園50戦目にして初の完封負けを喫するなど、熱戦が繰り広げられている。

 若手記者時代、何度か甲子園の取材にかり出され、灼熱(しゃくねつ)のアルプススタンドも回った記憶がある。その後、プロ野球担当記者として“再会”を果たすことになった高校球児時代のプレーも覚えている。PL学園の桑田真澄氏(56)、清原和博氏(56)、東北・佐々木主浩氏(53)などもそうだ。

 選手だけでなく、名監督と呼ばれた指導者も取材したが、特に印象深かったのが沖縄水産の故栽弘義監督だった。85年夏の「第67回全国高等学校野球選手権大会」のことだ。8月9日の第4試合で、函館有斗に11−1と大勝した沖縄水産の原稿を書いた私は、15日の第2試合、沖縄水産−旭川龍谷の試合も担当することになった。この試合は3−1で沖縄水産が勝利したが、試合より栽さんの試合後の言動があまり衝撃的だった。

 1941年に沖縄の糸満で生まれた栽さんは、悲惨な第2次世界大戦、太平洋戦争の犠牲者だった。4歳のときに沖縄戦に遭遇し、3人の姉をとも失い、自らも背中に重傷を負っている。栽さんにとって終戦記念日の8月15日は、いつまでも風化していない日だった。その8月15日に行われた試合で勝利をもぎとったのだ。さまざまな思いが交錯したことだろう。通路の両側が遮断され、サウナの中にいるような通路に置かれたお立ち台の上で、当初、栽さんは流れ落ちる汗をタオルで拭いながら、勝利監督インタビューを受けていた。

 だが、そのインタビューも終盤に差しかかると、残酷な質問が飛んだ。8月15日の終戦記念日を念頭に置いた沖縄戦の話だった。栽さんは試合の内容ではなく3人の姉の話、自らの背中に受けた傷について語り始めた。その途中で涙が頰を伝ったが、タオルで顔を拭いながら、時間の許す限り話をしてくれた。「野球ができる今の時代に感謝している」という言葉には、沖縄戦を体験した人だけにしか分からない重みを感じた。囲み取材をしていた私はメモをとる手を止めてただ話に聞き入っていたように思う。

 時代は昭和、平成から令和に突入したが、8月15日は今年もやってくる。スポーツができる今の時代に感謝し、それが永遠の続くことを願うしかない。(デイリースポーツ・今野良彦)