中日でスカウトを務めた法元英明氏【写真:山口真司】

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法元英明スカウトがほれ込んだ成東・鈴木孝政「ええなぁと思った」

 中日は1972年ドラフト会議で、快速球を武器とした千葉・成東高の鈴木孝政投手(現野球評論家)を1位指名した。当時のドラフト会議は12球団が抽選で指名順を決定。その全体2番目での指名だった。当初、中日はその年の選抜大会優勝投手で、人気も抜群だった日大桜丘高の右腕・仲根正広投手の1位指名を予定。それを土壇場で変更したが、この裏には伝説のスカウト・法元英明(ほうもと・ひであき)氏の“鈴木推し”の猛プッシュがあった。

「千葉に物凄いピッチャーがいる」。1972年の夏の高校野球地方大会前に、スカウト4年目の法元氏は関東地区担当の田村和夫スカウトからそう聞いて、成東の右腕・鈴木に興味津々となった。素晴らしい素材とはどんなものか。担当外でも見たいものは見たい。「『それはいっぺん見たいですわ、ぜひ見たいですわ』とお願いして千葉大会の準決勝を見に行ったんです」。舞台は県営天台球場(千葉県野球場)。成東の相手は根本隆投手(元大洋、西武)を擁する銚子商だった。

「球場は超満員でね、僕はセンターのバックスクリーンの横で見ていた。そしたら、いいフォームでスィーっと。僕の好きなタイプのピッチャーだったんだわ。バッターが振り遅れてしまいよるねん。球がキュンと伸びるし、物凄い、強烈なインパクトをもらったよ」。試合は銚子商が1-0で勝利したが、視察から戻った法元氏はすぐに近藤貞雄ヘッド兼投手コーチのところに行き、鈴木の良さを報告、力説したという。

「1回しか見ていなかったけど、あれだけのものを見せられたらねぇ……。そりゃあ、何回か見ていたら、あんないいピッチングができなくて評価を落としたかもしれないけど、僕はあの1回を大事にしたかった。あんなピッチングができるってことをね。まぁ、孝政にとっては、その時が最高だったかはわからないけど……。それに球団は“仲根、仲根”って言っていて、僕はそれに反感も持っていたしね」

選抜V腕・仲根正広の予定から鈴木にドラ1を変更

 仲根は193センチの長身右腕で「ジャンボ仲根」と言われていた。「スカウトは誰も仲根って言っていなかったのに、(球団の意向により)話題性重視で仲根を、となっていた。彼は体もあるし、バッティングもええしっていうことでね」。そんな中で法元氏は“鈴木推し”に動いた。いいものはいい。純粋に惚れ込んでいた。「田村さんは苦しんでいたよ。あの時、鈴木は明治大進学がほぼ決まっていて(明大監督の)島岡(吉郎)さんとの関係もあったからね」。

 1972年11月21日、東京・日比谷日生会館で開催されたドラフト会議。1番クジの大洋が法政大・長崎慶一外野手を指名したのに続き、2番クジの中日は成東・鈴木孝政投手の名前を挙げた。中日・与那嶺要監督の代理でドラフト会議に出席した近藤コーチが、法元氏の話を信用して土壇場で仲根から鈴木に変更したという。仲根は4番クジの近鉄が指名した。

 近藤コーチは鈴木との交渉にも参加して、両親を口説き落とし、入団にこぎつけた。結果的に法元氏のアクションが中日・鈴木誕生につながったわけだ。「ドラフトが終わってすぐ、東京にいた僕のところに(球団の)仲根を推す人から電話があった。“何てことをしてくれたんだ”ってね。名古屋に帰ってから『ご迷惑をおかけしました』とその人に挨拶はしましたよ。“そのうち、見とけ”って腹の中では思っていたけどね」。

 鈴木は抑えでも先発でも大活躍。中日投手陣に欠かせない存在になった。「近藤さんがみんなやってくれた」と法元氏は話すが、担当外の選手ながら猛プッシュした見立てに間違いがなかったことも証明された。「あの時、ホント、ええなぁって思ったもんな」。千葉大会準決勝で見た鈴木の快速球。伝説のスカウトの目には、今も焼き付いている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)