監督に直訴「代えないでください」 譲れなかった打席…大投手攻略を呼んだ“秘策”
法元英明氏は1964年、国鉄の大エース・金田正一から2本塁打
思い出作りから“大投手キラー”になった。元中日の左打者で、伝説のスカウトと称される法元英明(ほうもと・ひであき)氏は、プロ9年目の1964年、101試合に出場して2本塁打を放った。打った相手はいずれも国鉄(現ヤクルト)の大エース左腕・金田正一投手だった。左対左で代打を出されようとした時に、対戦したい一心から「代えないでください。大丈夫です」と西沢道夫監督に直訴したら本当に打てたという。
現役時代、ホームランバッターではなかった法元氏は、活躍していた時期でもシーズン2、3本ペースだった。プロ8年目の1963年のシーズン1号は8月18日の阪神戦(中日)。闘志むき出しの「ザトペック投法」で知られた村山昌史投手(村山実投手の、この年だけの登録名)から放った。「中日球場で打ったなぁ。村山はね、みんなが嫌がるほど、僕は嫌じゃなかったんだよ。あいつは関大で2年下。一緒にやっていたからね」。
後輩右腕はプロ1年目の1959年に18勝をマーク。54登板、295回1/3を投げて自責点39の防御率1.19でタイトルも獲得するなど、一気にスタープレーヤーとなったが、法元氏は決して相性が悪くなかったという。「大学は春のリーグ戦が終わると秋まで空くでしょ。あの頃の大学生は、その間に高校野球の手伝いに行っていた。僕は関大のマネジャーの関係で米子東に行ったけど、村山も連れていったなぁ」と懐かしそうに話した。
相性の良さでいえば、国鉄、巨人で通算400勝を記録した金田投手との対戦も法元氏は忘れられない。プロ9年目はシーズンで放った2本塁打をいずれも、その偉大なる左腕からブチかました。1本目は1964年7月1日の国鉄戦(中日)ダブルヘッダー第2試合だった。法元氏は「7番・右翼」でスタメン出場。国鉄の先発は左腕・渋谷誠司投手だったが、3-1で国鉄2点リードの4回裏、打者・法元氏のところで、金田投手がリリーフで登板してきた。
代打を出そうとした西沢監督に懇願「いや、大丈夫です」
「葛城(隆雄外野手)がランナーで一塁にいて、僕に回ってきたんだけど、ベンチから(監督の)西沢さんが出てきて『代わろう』って言われたんだよ」。先発投手に続いての“左対左”で、しかも今度の相手は大左腕。指揮官にしてみれば当然の策だったが、これに法元氏は「代えないでください」と抵抗した。「もう金田さんとは一生対戦することはないだろうと思って、どうしても打席に入りたかった」。それこそ一生の思い出にもなると思って引き下がらなかったのだ。
「『その代わり1球目だけ、ヒットエンドランのサインを出してください』ってお願いした。『だけど打てんだろ』という西沢さんに『いや、大丈夫です。代えないでください』と言ってね。金田さんは僕のことをなめているから、真ん中にシュッと来るんじゃないかって感じがしたんよ。で、1球目、ヒットエンドランのサインが出てカポーンってライトスタンドへホームランやった。金田さんはえーって顔をしていたよ」
同点2ラン。試合はその後、点の取り合いになり、延長11回5-6で中日が敗れた。金田は最後まで投げてシーズン15勝目をマーク。法元氏は1本塁打を含む3安打2打点と活躍した思い出の試合だ。さらに8月23日の国鉄戦(神宮)でも、「7番・右翼」で出場し、先発・金田からソロアーチを放った。「1号を打ってから、金田さんが投げても代えられなくなったんです。それどころか、代打でいくようにもなったんだよ。金田さんに強いってことでね」。
ただただ対戦したいとの一心で、交代を拒否しただけだったのが、状況一転だった。“金田キラー”になったら、雲の上の人だった大投手が近い存在にもなったという。「それまでは、そばにも寄れんかった。金田さんも“何や、この小せがれ”って思っていたはず。それが試合前とかに声をかけられたりして、対等にしゃべれるようになったんだよ。『お前は俺を茶化して』とか言われて『ありがとうございます。またね』って感じで返したりね」。
とにかく相性が良かった。「金田さんが(1965年シーズンから)ジャイアンツに行ってからもそう。よう打ったもんなぁ、カネヤンからは。自信も持つようになった。カネやんやったら“いける”って思ったからね。うーん。金田さんのことは忘れられんわ。最初はたまたまだったのにね。まぁ、それも(交代拒否を受け入れてくれた)西沢さんが温情監督やったからやね」。法元氏は顔をほころばせた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)