元中日スカウトの法元英明氏(左)と田尾安志氏【写真:本人提供】

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89歳の法元英明氏は中日伝説のスカウト…7月25日のOB戦で総監督を務める

 中日ドラゴンズ初のOB戦「DRAGONS CLASSIC LEGEND GAME2024」が2024年7月25日にバンテリンドームナゴヤで開催される。そこで総監督を務めるのが伝説のスカウト・法元英明(ほうもと・ひであき)氏だ。松本幸行投手、三沢淳投手、鈴木孝政投手、田尾安志外野手、都裕次郎投手、小松辰雄投手、牛島和彦投手ら、そうそうたる選手獲得に関わり、中日の歴史を築き上げた。自身も現役時代は中日外野手として活躍。原点は“甲子園”にあった。

 法元氏は1956年、関西大を中退して中日に投手として入団。プロ3年目に野手に転向し、強打強肩の左の外野手として貴重な存在だった。プロ13年目の1968年限りで現役引退し、スカウトに転身。次々と逸材を獲得するなど辣腕ぶりを発揮した。1983年に2軍監督を務めてウエスタン・リーグを制覇するなど一時ユニホームも着たが、1987年から再びスカウトに。2000年に退職するまで中日の強化に尽力した。

「スカウトが法元さんだったので中日にお世話になることを決めた」という選手は多いし、入団後に主力として活躍した選手もまた多い。何人ものレジェンドを中日に導いた法元氏の功績は大きいし、ずっと語り継がれている。1935年3月3日生まれの89歳。中日初のOB戦で総監督を務めることに「長年生きていたら、こういうことになって本当に感謝ですよ」と話すが、球団への貢献度からしても当然の人選だろう。

 そんな法元氏は大阪出身。「大阪の布施で生まれて、布施第一国民学校、今は(東大阪市立)荒川小学校っていうのかな。そこに通って4年生の1学期が終わってから、昔でいうと1里(約4キロ)か2里離れているだけなのに、疎開を含めて中河内郡加美村、今の大阪市平野区だけど、そっちの学校に転校した。まだ戦争中。5年生の時に天皇陛下の玉音放送(1945年8月15日)を聞いた。大人は戦争に負けたとは言わなかった。戦争が終わったって言っていましたね」。

 野球との出会いは、その翌年。1946年8月15日から8月21日まで西宮球場で開催された「第28回全国中等学校優勝野球大会」だったという。戦後初の大会。「浪華商の平古場(昭二)さんが(エースで)優勝した時だったね、ラジオで試合を聴いて、急にこんな面白いものはないなと思った。でも野球というものをあまり知らなくて、最初はホームベースを描いて、転がしてゴロでポンとバットで打っていた。そんな野球をやっていたんだけどね」。

野球にのめり込んだ少年時代「弁当を持って甲子園に見に行った」

 本格的に野球に取り組んだのは加美中学に入ってから。「旧制中学から新制中学になって、軟式野球部もできてね。技術は伸び盛りだけど、体がねぇ。戦時中、ろくなもんを食っていないからね。あの頃は何を食っていたかなぁ。芋のつるとかトウモロコシの粉とか。ごはんはあまり食えなかったなぁ。サツマイモのおかゆさん。食べたと思ったら、すぐ腹が減ったよね」。そんな中、野球にどんどんのめり込んでいった。

 そこでさらに影響を受けたのが“甲子園”だ。「全国中等学校優勝野球大会」は1947年の第29回大会を、1940年の第26回大会以来7年ぶりに甲子園球場で開催。1948年の第30回大会からは学制改革によって「全国高等学校野球選手権大会」と名称を変えた。「浪華商のあとは、小倉が(エースの)福嶋(一雄)さんで強い時だったけど、近所の子どもたちと一緒に朝から弁当を持って甲子園に見に行った。あそこに行くのが喜びだったね」。

 技術もアップした。「加美中の時は外野やファーストをやったりしていたけど、4番だった。よう打ったよ。久宝寺中、龍華中とかの野球部が集まっての大会もあったしね」。そんな中学時代にしのぎを削ったメンバーがこぞって八尾高校に進学したという。「八尾は(全国大会出場歴もある)伝統校だしね。僕らが入った時は3年計画だって、先輩からものすごくしごかれた。あの時のしごきは終生忘れることはないな」。

 法元氏は八尾高校3年の1952年に春夏連続で甲子園出場を経験した。エース・木村保投手(元南海)を擁し、春はベスト4、夏は準優勝と成績も残した。そこから野球人生は広がっていったが、高校野球が身近なものだったのが何よりも大きかった。「電車を乗り継いで甲子園のあの暑いところに通ったなぁ。今、考えたらホント、夢中だったんだよね」。中日伝説のスカウトは少年時代をしみじみと振り返った。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)