鈴木おさむは「こんなアイドル見たことない」と驚いた…キラキラを捨てた6人組が国民的人気を獲得した理由
■初登場1位が取れず、売り上げは右肩下がり
アイドル冬の時代と言われていた。
アイドルなんてだせー! という空気が世の中に流れていた。
そんなアイドル冬の時代にデビューした6人組に対して。
時代も冷たかった。
これまでは、デビューして瞬く間に人気者になっていったはずのその事務所のアイドルたち。
だが。91年9月9日にデビューした彼ら6人に、時代はそれを許さなかった。
デビュー曲は初登場チャート1位が当たり前だったのに、1位は取れず。デビュー曲からどんどん売り上げは下がっていった。
売り上げが下がる中で、彼らがそれまでのアイドルたちと違うアプローチを始めたことに、僕はふと気づいた。
やたらとバラエティー番組に出始めたのだ。
■若手芸人ばりに体を張るアイドル
彼ら6人は、それまでのアイドルのように、歌を歌うために番組に出て、アイドルらしくトークしてゲームしてというのではなく、これまでのアイドルが決してやらなかった出演の仕方をしていた。
体を張り、若手芸人と同様のことをしていく。
歌番組が少なくなり、アイドルなんかが求められていない時代に、彼らがテレビで露出をしていくには、バラエティー番組しかなかった。
彼ら6人のマネージメントを行うことになった女性の「イイジマサン」は、仕事のない彼らをテレビに出演させるために、今までとは違う売り方に時間を費やした。
アイドルが求められていた時代は、プロダクションがテレビ局に売り込みなんかしなかったはずだ。だが、イイジマサンはテレビ局の、バラエティー番組に頭を下げて売り込みに行った。
僕が若手作家として参加させてもらっていた番組の会議でプロデューサーが「こんなアイドルから売り込みあるんだけどさ」とプロフィールを出した。
そこにはあの6人の写真があった。
プロデューサーは「いらねーよな?」と冷たく言った。
僕も放送作家になったものの、何者でもなく。目の前の大人たちに認められるためなら何でもやった。必死だった。そんな自分にとって、アイドルとしてデビューしたはずの6人は、アイドルとしてのキラキラを投げ捨て、バラエティーに出て、とても必死に見えた。
僕は、そんな彼らを見て、なんか共感した。必死なアイドルなんていなかったから。
■アイドルという虚像をはぎとった
ある日、家でテレビを見ていたらあの6人がバラエティー番組に出ていた。
6人の中の1人が、「僕らアイドルなんで〜」とアイドルであることをフリにして、自虐の言葉を言った。アイドルはアイドルであってその虚像の中で生きなければならなかったはずだ。
でも、彼らは「アイドルなのに、それは仮面なんですよ! 嘘なんですよ!」と認めて、そんな自分たちのことを笑いにした。
それまでのアイドルが伝えることのなかった究極のリアル。
僕は思わず。
笑った。
今までアイドルがやらなかったソレをアリにしてやっていくのなら。
何かが変わるかもしれないと思った。
アイドルに本当のおもしろさなんて必要なかったはずなのに。
おもしろかった。
僕は嫉妬した。
だけどその嫉妬の奥には、ワクワクした思いがあった。
■「キラキラ」の逆を行った格好よさ
彼ら6人は力を合わせて、アイドル像を壊した。
壊し続けていくことで、周りの人たちが彼らに振り向いていった。
アイドルなんかで笑うもんかと思っていた男子も、その彼らの必死さを認めだした。
彼ら6人は、にらめっこで勝っていったのだ。
新たな形のアイドルに、みんなが徐々に魅了されていった。
それまでのアイドルが歌っていた歌はアイドルソングと言われるジャンル。キラキラして、少年っぽさがある。曲を聞いただけで、それを歌い踊る時の衣装がイメージ出来るものだった。
それまでのアイドルと比べるとCDの売り上げが上がらなかった彼らの曲が、大きく変化し始めた。
90年代の日本のクラブブームとともに、クラブミュージックのようなサウンドと、その時代を生きる若者たちのリアルな空気感も入れ込んだ歌詞。
そんな曲を、キラキラした服を着て笑顔を作り、オーバーな振り付けで歌うのではない。
逆を行く。
音楽のプロたちも、彼ら6人の曲を「格好いい」と評し始めた。
アイドルの曲が流れることのなかったFM局でもかかり始めた。
大人が。世の中が。彼ら6人という新たなアイドルを。
認めて。おもしろがり始めた。
■同い年のタクヤとのファーストコンタクト
1994年12月。
放送作家としてAMのラジオ局で修業を積んでいた僕は、大人たちに認められたくてがむしゃらに食らいついていった結果、ラジオ局で沢山の仕事をもらえるようになっていた。
そんな僕に、FM局での仕事のオファーがきた。初めてのFM番組のレギュラーの仕事だ。
それは、あのアイドルの仕事。ドラマでも人気が出始めていた、6人の中の1人のメンバーの番組を作るという仕事だった。
千鳥ヶ淵の横にあるビルの一番上のスタジオ。
スタジオに入ると、既に彼は到着していて、窓枠に肘をかけて立ちながら台本を読んでいた。
窓から差し込む光が、彼を囲んでいて。
彼は「こんちは」と言って名前を名乗った。
僕と同じ年。1972年生まれ。同学年。
僕が同じ年だと知ると、彼は「タクヤって呼んで」と言った。
アイドルだからこそナメられたらいけないと勝手に思い込んでいた自分は、最初にかましてやらなきゃ! とイタい使命感のようなものを抱いていた。だから初対面の彼に向かって、いきなり、彼らが出演していたとあるバラエティー番組のことを話し、「俺、あの番組嫌いなんだよね」と言った。
すると、タクヤは笑いながら。
「俺も」
そう言って手を差し出してきた。
僕はその手を強く握った。
■「等身大の22歳」がアイドル像を破壊
22歳同士。同学年のタクヤのラジオは「ワッツアップ」という挨拶で始まり終わる、まさにアイドル像を破壊していく番組だった。
彼と同学年の人が話すようなことはすべて話す番組にしたかったし、彼もそれに乗っかり、まんまと飛び越えていった。
アイドルが恋愛の話なんてしないのが当たり前だった時代に、恋愛経験から、付き合っていた彼女の話まで、「自然」に、やんちゃに話した。
ラジオを作っていく中で、彼のモノマネをする能力、特に格好いい人の格好よさをモノマネする能力の高さに痺れ、キャラクターを作ってコントのような企画も考えた。
彼らのファンだけではなく、自分らと同世代の男が聞いても、共感したり笑ったり出来る内容にしたいと思って、全力で向き合った。
普通のマネージャーなら、僕のそういう番組構成に対して絶対怒るところだが、イイジマサンは僕のやることをおもしろがってくれた。
■阪神・淡路大震災直後、何を歌うか
一度だけ、彼らの発売した新曲に引っかけて、ド下ネタの企画を作り、放送したことがあった。イイジマサンは、僕に電話してきて、めちゃくちゃ怒った。めちゃくちゃキレた。
キレる中で「おもしろいのは分かるよ! でも、さすがにあれはダメ」と言った。
怒られる中でも「おもしろい」と認めてくれていることが嬉しかった。
イイジマサンは、弱冠22歳の小僧をおもしろがってくれたし、僕はこの人に認められたいと、もっと頑張れるようになった。
1995年1月17日。
阪神・淡路大震災が起きた。
1月19日。
ラジオの収録にイイジマサンが来て、ラジオ終わりで、タクヤと2人で何か話していた。
その様子から、とても大切なことを話している空気が伝わった。
翌日、金曜20時の人気音楽番組に彼ら6人は出演する予定で、そこで歌う曲は、人生はなんとかなるから、たぶんオーライだよ! というメッセージを格好いいブラックミュージック的音楽に乗せた新曲になるはずだった。
イイジマサンは僕に、翌日の音楽番組で歌うのをその新曲ではない曲にしたことを教えてくれた。
それを聞いて。見なきゃいけない。見届けなきゃいけないという気になった。
■日本のピンチに、逃げずに向き合った
1月20日。
20時に番組が始まると、彼ら6人が出てきた。
黒いスーツに身を包んで、阪神・淡路大震災の被災者に向けた言葉を伝えた。
彼らは歌った。当初歌う予定だった新曲ではなく。
どんな時もくじけずにがんばりましょうと。
本気で本音で伝えようと歌い踊る6人。
アイドルだったら、こういう事態には、生放送でコメントすることすら避けたいところだ。
小さなミスでアイドルとしての人生が終わるから。
だが、彼らは、日本のピンチに向き合った。逃げずに、歌った。
この番組での彼らの歌唱は、多くの人を勇気づけた。
僕は番組を見ながら、彼ら6人のステージがさらに大きく変動していく気がした。
自分の心臓の鼓動が速くなり、あることを思った。
もしかしたら、彼らが本気で新しい時代を作るのかもしれない。
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鈴木 おさむ(すずき・おさむ)
実業家、元放送作家
1972年、千葉県千倉町(現南房総市)生まれ。高校時代に放送作家を志し、19歳でデビュー。バラエティーを中心に数々の人気番組を構成。2002年には、森三中の大島美幸さんと結婚。「いい夫婦の日」パートナー・オブ・ザ・イヤー2009受賞。主な著書に、結婚生活を綴った『ブスの瞳に恋してる』(マガジンハウス)、『ハンサム★スーツ』(集英社)、『テレビのなみだ』(朝日新聞出版)、『最後のテレビ論』(文藝春秋)など。
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(実業家、元放送作家 鈴木 おさむ)