藤原道長を演じる柄本佑さん(写真:大河ドラマ公式インスタより引用)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第10回は恋に奔放だった和泉式部と藤原道長のやりとり、紫式部が手放しで評価した赤染衛門のエピソードを紹介する。

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藤原道長の「浮気女!」に反撃した和泉式部

「気軽な気持ちで手紙を書いたとき、文筆の才能を感じさせる。ちょっとした言葉にも、香気を放つのが見える。詠む歌はたいそう興味深いものです」

(「うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと」)

『紫式部日記』を読み解くと、紫式部が歌人の和泉式部のことを、そんなふうに高く評価していたことがわかる。

紫式部は寛弘2(1005)年頃に、そして和泉式部はその約4年後の寛弘6(1009)年に、ともに一条天皇の中宮・彰子のもとに出仕している。

同僚だったこともあり、和泉式部のプライベートも紫式部はよく知っていたのだろう。歌の才能を認めながらも、「和泉にはちょっと感心できない点があるけれども」(「和泉はけしからぬかたこそあれ」)と苦言を呈している。

和泉式部は、20歳頃に橘道貞と結婚。夫が和泉国へ赴任すれば、自身も和泉へ出向くなど夫婦仲は良好だった。2人の間には、小式部内侍(こしきぶのないし)という娘も生まれている。

だが、新婚時期も終わって京に戻ると、和泉式部は冷泉天皇の皇子、為尊親王と恋に落ち、さらに為尊親王が病死すると、今度は弟の敦道親王との恋愛をスタートさせた。

たとえ周囲から、どれだけたしなめられたとしても、和泉式部は気にも留めなかったようだ。なにしろ、スキャンダラスな関係を『和泉式部日記』で、自分から堂々と描いているのだから、肝が据わっている。いわば、現代でいうところの「暴露本」だ。

恋愛に奔放だった和泉式部を、藤原道長がイジったこともあった。ある人が扇を持っているのを見て、道長が「誰の扇だ?」と問うと、「あの女のです」と和泉式部からもらったものだと話した。

すると、道長はその扇をとりあげて、「浮気な女の扇」(「浮かれ女の扇」)とイタズラ書きをしたのだという。道長もまた小学生レベルのしょうもないことをしたものだが、それを知って和泉式部は、こんな歌を詠んでいる。

「こえもせむ こさずもあらむ 逢坂の 関もりならぬ 人なとがめそ」

現代語訳すれば「男と女の逢瀬の関を越える者もいれば、越えない者だっている。恋の道は人それぞれなのに、何の関係もないあなたにとがめられる覚えはありません」。

痛快な和歌で、道長をぎゃふんと言わせた和泉式部。多くの男性たちが和泉式部に魅了された理由もわかる気がする。

紫式部が「本格派」と認める赤染衛門

紫式部が和泉式部の和歌を高く評価しながらも、こんな辛口をいちいち挟んでいることは、前回の記事で書いた(過去記事「辛口な紫式部が歌を絶賛」恋に生きたある女性」参照)。

「本物の歌人といふうではないですが」

(まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ)」

「<恥づかしげの歌よみや>とはおぼえ侍らず」

(<頭の下がるような歌人だわ>とまでは私は思いません)

では、そんな紫式部にとって「頭が下がる」ような歌人は誰なのか。それは大隅守・赤染時用の娘で、「中古三十六歌仙」の一人とされる赤染衛門(あかぞめえもん)だ。

「中古三十六歌仙」とは、藤原範兼が『後六々撰』に選び載せた和歌の名人36人のこと。藤原公任が選んだ「三十六歌仙」には入っていないものの、秀でた者、あるいは、後世の歌人で構成されている。

その後、鎌倉中期に成立した『女房三十六人歌合』の「女房三十六歌仙」にも選ばれているから、その実力は誰もが認めるところだったのだろう。

紫式部も「まことにゆへゆへしく」、つまり「まことにいかにも本格派」と赤染衛門を評価。「歌よみとて、よろづのことにつけて、よみ散らさねど」とあり、「歌人だからといってどんな場面でも読み散らすことはないが」としながら、こう続けている。

「知られている歌はどれも、ちょっとした折に詠まれたもので、それこそ<頭が下がる>ほどの詠みぶりである」

(「聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ」)

清少納言のことは激しく批判し、和泉式部については理論に乏しいものの天性の才能を評価した紫式部。一方で、赤染衛門のことは手放しで評価していることが伝わってくる。

夫とラブラブでついたあだ名とは?

また、私生活の面においても「けしからぬ」和泉式部とは違い、赤染衛門は夫の匡衡と夫婦仲がよかったことも、紫式部はほほえましく感じていたようだ。

「丹波の守の奥様のことを、中宮様や殿の周囲では<匡衡衛門> なんてあだ名で呼んでいるんですよ」


凰稀かなめさん演じる赤染衛門(写真:大河ドラマ公式インスタより引用)

夫の匡衡とあまりに仲良しなので、彰子や道長らが赤染衛門のことを「匡衡衛門(まさひらえいもん)」とあだ名で呼んでいた……そんなエピソードも紫式部は書き記している。

和歌に対する姿勢はすばらしく、プライベートも夫婦ラブラブで何より……。それくらいでこのテーマについては終わっておけばよいものの、紫式部は赤染衛門のことをさらに褒めるために、わざわざ世間を見下してから、赤染衛門の項目を締めくくっている。

「(赤染衛門ほどの実力もない人が)ややもすれば、上句と下句が繋がらないような腰折れ歌どころか、腰が離れてしまっているような歌を詠んでても、何とも言えない風流を気取った態度で「自分は賢い」と思っている人は、憎らしいと同時に、その身の程しらずな様にかわいそうにとさえ思います」

(ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えも言はぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、憎くもいとほしくもおぼえはべるわざなり)

清少納言の悪口へと続く

誰とも言わずに、ここまでこき下ろせるのもすごい。それだけ紫式部は和歌を大切に考えていたということだろう。

ちなみに、『紫式部日記』では、このあとに続くのが、有名な清少納言の悪口である。何か連想されるものがあったのだろうか……。

(つづく)

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)