テレビに映る「スーパー高齢者」は不自然…現役医師が語る「本当に老いを克服した人」の生き方
※本稿は、久坂部羊『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)の一部を再編集したものです。
■長寿志向につけこむ「健康ビジネス」
いつまでも元気で長生き――。それは万人の望みでしょう。
可能なかぎり元気でいたい。若々しくありたい。健康でいたい。介護など受けずにいたい。何かそれを実現する特別な方法があるのではないか。
こういう欲望につけこむビジネスが、巷にはあふれています。効くはずのないサプリメントや健康食品。通販で「今がお得」「初回にかぎり半額」「1カ月無料でお試し」「今すぐお電話を」と視聴者の心をくすぐり、急かして購買に導くあざとさには、義憤さえ感じます。
急激な体重減少を保証したり、過剰なビタミン摂取を勧めたり、顔や身体に異物を注入したりと、健康に悪いに決まっている行為をそそのかす美容業界は、スマートになりたい、美しくなりたい、コンプレックスを克服したいなどの欲望につけこみ、長期予後など考えずに金儲けにいそしんでいます。
医療界も十分な根拠のない認知症の予防や、がん予防の情報を垂れ流し、健診業界はおためごかしの情報で人々の歓心を買い、逆に健康診断や検診をサボっていたら大変なことになると脅して、受診者を増やそうとしています。製薬業界は少しでも早く、少しでも多く、少しでも長く薬を服用してもらえるよう、医者におもねって正常値を厳しくし、メディアのCMで売り上げを伸ばそうとしています。
■病院に行けなくても不健康になるわけではない
2011年の東日本大震災のとき、多くの医療機関が被害に遭って、一定期間、病院を受診できなかったり、薬が手に入らなかったりした人も少なくなかったはずです。しかし、それで症状が悪化し、取り返しのつかなくなった人がいたという話は聞きません。つまり、行かなくてもいい病院に行き、のまなくてもいい薬をのんでいた人が多かったということです。
2021年に新型コロナウイルスの蔓延で緊急事態宣言が出されたときも、クリニックで感染することを恐れて、特に小児科の受診者が激減したそうですが、それはとりもなおさず、受診しなくてもいい子どもたちが心配性の親に不必要に受診させられていたことの証左でしょう。
医療も営利で成り立つ業界ですから、顧客を増やすことに熱心であるのは致し方ないですが、偏った情報やあざとい手法で一般の人を不安に陥れ、必要がない人まで医療に導き入れることには疑問を感じます。まるで宗教が「地獄に堕ちるぞ」「悪魔に取り憑かれるぞ」と脅して、信者を集めるのと同じに見えます。
■「欲望肯定主義」が不幸をつくりだす
今の日本はこれまでにないほど自由で平和で豊かです。だからだれもが幸せかというと、必ずしもそうではありません。自由で平和で豊か故の問題が、さまざまに噴出していますから。
そのひとつが“欲望肯定主義”が作り出す不幸です。
欲望肯定主義とは、我慢する必要はないという気前のいい発想であり、また我慢しなくてもいいという優しい目線でもあります。それはすばらしいことのように見えて、これまでにはなかった不満、不愉快、不幸を作り出しています。
たとえば、安易な“甘い汁情報”の氾濫。
「楽にやせる」「すぐに儲かる」「安くてうまい」「元気で長生き」などで、多くの人々を引き寄せます。中には額面通りのものもあるでしょうが、大半は絵に描いた餅でしょう、そもそも矛盾しているのですから。
こういう安易な情報が広がると、人は楽をすることがデフォルト(初期設定)となり、本来、人生にとって必要な努力とか忍耐とか工夫を遠ざけてしまいます。
コブクロが「LOVER’S SURF」で「高望みしたってかまわない」と威勢よく歌うと、なんだか希望が持てる気がしますが、そもそも「高望み」はこれまで否定的に語られていた言葉です。私も子どものころ、親からよく「高望みをするな」と言われたものです。それは高望みが失敗や不幸につながる危険性が高いからです。
■「いつまでも元気に」と期待するほどつらくなる
少し前には、大学入学共通テストで活用される民間試験に関して、文科省の大臣が「身の丈に合わせて頑張って」と発言して、教育格差の容認だと批判を浴びましたが、本来、「身の丈に合った」とか「分相応」という言葉は、肯定的に使われていたはずです。
今は平等の社会なのだから、生まれや育ちに縛られる必要はないと言われれば、希望を与えてくれるように感じますが、一方で自分は何にでもなれるというような勘ちがいを生み、失敗する人を増やしているのではないでしょうか。
そのとき、「高望みをするからだ」と諭す大人がいればまっとうな生活にもどれるでしょうが、社会が悪い、政治が悪いと、人のせいにしだすと立ち直りの道は遠のきます。何でもかんでも自己責任にするのはよくありませんが、何でもかんでも社会のせいにするのもよくありません。
老いに関しても、現実から目を背けていると、実際の老いに嘆き、悩み、苦しむばかりです。快適な老いを実現するために必要なものは、一にも二にも現状の受容、すなわち足るを知る精神です。
欲望肯定主義に乗せられて、いつまでも元気で若々しくさわやかに快適になどと思っていると、目の前の日々は不平不満に塗り込められるでしょう。
■「75歳で飛躍」の弊害
欲望肯定主義の世の中はまったく油断がならず、不幸と不満を増大させる勘ちがいを引き起こす“罠”に満ちています。その最たるものが、スーパー元気高齢者の活躍です。
もう亡くなられましたが、スーパー元気高齢者の代表といえば、元聖路加国際病院名誉院長の日野原重明氏でしょう。百歳を超えても現役の医師であり、晩年にもベストセラーの著作を発表し、テレビ出演もされていました。かつて日野原氏はあるテレビ番組で、次のように発言していました。
「65歳で助走がはじまり、75歳で飛躍するんです」
なんと希望に満ちあふれた言葉でしょう。しかし、現実的ではありません。むしろ、弊害が多いです。たとえば、せっかく引退する気になっている高齢の社長や会長が、またやる気になってしまったりとか。
「老害」という言葉はあまり使いたくありませんが、現実にはそこここでささやかれています。職場で頑張る地位の高い高齢者は、たいてい周囲には有害であって、当人はそれに気づいていません。中には、「若い者がどうしてもやめさせてくれない」などと言う人もいますが、そんな人にかぎって、裏では若者たちがリタイアを熱望しています。
■「はつらつとした高齢俳優」の不自然さ
さらに日野原氏は番組で、「わたしはエレベーターは使いません。階段も二段飛ばしで上がります」と発言していました。そんな言葉を聞けば、「よし、ワシも負けておれん」とばかり、突然、階段を二段飛ばしにして転倒、骨折して寝たきりになったり、あるいは途中で心臓発作を起こして永眠ということになったりしかねません。
日野原氏の著書には、階段飛ばしについて、「急激な無理は禁物」と書いてありますが、テレビではそこは省略されます。視聴者の盛り上がりに水を差すからです。
昨今は高齢の女性俳優がテレビに出演して、その若さと美貌、元気はつらつなようすを、ごく控えめを装いながら堂々と披露しています。自然な人間の姿とはとても思えませんが、おそらく並外れた努力と巨額の投資が裏にあるのでしょう。もちろんそんな秘訣(ひけつ)が明かされることはなく、明かされるとしてもごく当たり障りのないもので、ほんとうに効果のあるものは秘されてしまいます。
そんな元気な高齢女性俳優も、カメラがオフになれば「フーッ」と息を吐き、シャンと伸びていた背中もくにゃっと曲がるのではないでしょうか。家に帰ればさらに緊張は緩み、年齢相応の老化現象が露出するはずです。しかし、視聴者はそこまで想像しません。ふだんの生活も若々しく美しいのだろうと思います。
■元気な理由は努力よりも遺伝の影響が大きい
それで困るのは、未だ老いの手前にいる中年世代の人たちが、老いの厳しさに対する心の準備をおろそかにしてしまうことです。80歳をすぎてもあんなふうにいられるのか、90歳に近づいてもあんなに元気でいられるんだと、楽観的になって安心してしまいます。
スーパー元気高齢者が元気でいられるのは、投資もあるでしょうが、基本的には持って生まれた体質のおかげでしょう。もともと長寿の体質でなければ、何をやっても効果は得られません。もともとの体質(すなわち遺伝子)は変えられませんから、快適な老いを実現するには、自分の体質の中で満足を得ていく以外にありません。
ところが、スーパー元気高齢者の活躍を見せられると、自分もそうなりたい、なれればいいな、なれるのではないか、きっとなれるだろうと思う人が増え、そうなれない場合、不満と失望を抱え込んでしまうのです。
私が老人デイケアのクリニックにいたとき、身体が弱って不自由になったことを嘆く人は多かったですが、あまり不愉快そうでもない人もいました。そういう人は、「年いったらこんなもん」と、現状を受け入れていました。老いの現実を正しく認識し、高望みをせず、身の丈に合った状況で満足するすべを、身につけている人なのでしょう。
それはある種の智恵にほかなりません。
■老いを受け入れるのは簡単ではない
老人デイケアのクリニックに勤務していたとき、利用者さんのテーブルをまわって順番に、「調子はどうですか」と聞いていました。「大丈夫です」と言う人もいましたが、大半は何らかの症状を訴えます。
「なんや息をするのがしんどくて」
「足がむくんで抜けるようにだるいんです」
「目ヤニが出て、耳からも耳だれが出て」
「便が硬くて、力むと脳の血管が破れそうで」
「オシッコのにおいがきつくて」
「夜になかなか寝つけんで、寝たと思うたらお便所に行きとうなって」
40人ほどの高齢者の苦しみを聞いてまわるのは、かなりのハードワークでした。なにしろ簡単には治らないことばかりなのですから。しかし、これらの訴えは年を取ればある程度予測可能なものばかりです。頭でわかっていても、自分のこととしては受け入れがたいのでしょう。
人はだれでも、年を取れば足が弱るし、手がしびれて、息切れがして、身体が動きにくくなり、眠れなくなったり、尿が出にくくなるのに夜はトイレが近くなったり、お腹が張るのにガスは出ず、出なくていい痰や目ヤニやよだれが出て、膝の痛みに腰の痛み、嚥下(えんげ)機能、消化機能、代謝機能も落ちたりして、身体が弱るものです。そうなるのが自然なのに、それを受け入れるのは簡単ではありません。
老いるということは、失うことだとも言われます。体力を失い、能力を失い、美貌を失い、余裕を失い、仕事を失い、出番を失い、地位と役割を失い、居場所を失い、楽しみを失い、生きている意味を失う。
そんな過酷な老いを受け入れ、落ち着いた気持ちですごすためには、相当な心の準備が必要です。
■優秀な人ほど“老い”に立ち向かってしまう
若いときから優秀だった人は、人生で得たものが多い分、失うつらさにも耐えなければなりません。仕事で高い地位についていた人は、リタイアしてふつうの人になることに抵抗があるでしょうし、頭がいいと言われていた人は、記憶力や計算力が衰え、言いまちがい、勘ちがいなどを指摘されると腹が立ち、逆にショックを受けたり、落ち込んだりします。
もともとさほど優秀でない人は、リタイアしても同じですし、記憶力の衰えなどもたいして気にはなりません。健康に気をつけて、どこも悪いところがなかった人も、老化現象による不具合には耐えるのがたいへんです。若いときから具合の悪い人のほうが、慣れている分、年を取ればこんなものだと受け入れやすいでしょう。
私より8歳年長の知人は、高学歴で社会的地位も高い職業に就いていましたが、老いを受け入れることができずに苦しんでいます。76歳にもなれば、衰えて当然だと思うのですが、なんとか若いときの状態を維持しようと頑張っています。
これまで大きな挫折の経験がなく、逆に努力によって困難を克服してきた成功体験があるので、老いにも努力で立ち向かおうとするのです。当然、心は安らかではありません。「いい加減にあきらめたら」と奥さんに言われても、頑としてあきらめません。あきらめたら終わりだ、敗北主義だと頑張るのです。
■どれだけ努力しても老化は避けられない
老いの不如意も衰えも、受け入れて付き合っていくしかない。そう思えたら少しは楽になるのにと思います。あきらめの効用です。
あきらめるというのは、もともと「明らむ」、すなわち「つまびらかにする」とか「明らかにする」という意味で、仏教では「諦」という文字は「真理・道理」の意味があるそうです。あきらめきれないのは、状況を明らかにしていない、真理・道理に到達していないということで、だからイライラ、モヤモヤするのです。健康維持や老化予防の努力にも思わぬ罠が潜んでいます。
毎日、しっかり運動をして、酒、煙草もやらず、夜更かしもせず、栄養のバランスを考えて、刺激物を避け、肥満にも気をつけて、疲れも溜めず、健康診断や人間ドックも欠かさず、ストレスも溜めず、細心の注意で健康に気をつけていても、老化現象は起こります。がんや脳梗塞やパーキンソン病、あるいは認知症も、なるときはなります。そのとき冷静に受け止められるでしょうか。あんなに努力したのにと、よけいな嘆きを抱え込んでしまわないでしょうか。
もちろん、努力をすればリスクは下がります。しかし、ゼロにはなりません。そのことをしっかり認識しておかないと、努力しない人以上の苦しみに陥る危険があります。
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久坂部 羊(くさかべ・よう)
小説家、医師
1955年大阪府生まれ。大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部附属病院の外科および麻酔科にて研修。その後、大阪府立成人病センター(現・大阪国際がんセンター)で麻酔科医、神戸掖済会病院一般外科医、在外公館で医務官として勤務。同人誌「VIKING」での活動を経て、『廃用身』(幻冬舎)で2003年に作家デビュー。『祝葬』(講談社)、『MR』(幻冬舎)など著作多数。2014年『悪医』で第3回日本医療小説大賞を受賞。小説以外の作品として『日本人の死に時』、『人間の死に方』(ともに幻冬舎新書)、『医療幻想』(ちくま新書)、『人はどう死ぬのか』『人はどう老いるのか』(ともに講談社現代新書)等がある。
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(小説家、医師 久坂部 羊)