(写真:Graphs/PIXTA)

人生にもたらされ続ける不条理と不合理を解消するにはどうすればいいのでしょうか。それには「企業のお金儲け」にとどまらない、人類のさまざまな側面に関わる本来の経営概念に立ち返る必要があります。本稿は、『世界は経営でできている』より一部抜粋・再構成のうえ、「虚栄」について、経営的視点で考察します。

人間に虚勢行動は必要なのか?

動物学的にみれば虚勢行動は「力関係が定まっていない間柄において、上下関係の形成を通じて摂食と生殖の優先順位を明確化する」機能を持つ。すなわち限られたエサをめぐって争い合う野生のサルの本能が、こうした機能を求めるのだ。

ここで一度立ち止まる必要がある。人間は今や原人の時代を脱した。技術の進歩のおかげで今や必要最低限を大幅に上回るエサを生産できる。さらにマッチングアプリ等の登場で繁殖行動さえお手軽になってしまったのは周知のとおりだ。

そのため本来ならば、人間にとっての虚勢の機能的役割はサルにとってのそれよりも小さくなっていくはずだ。スイーツカフェでの虚勢合戦にしても、なにも三段ケーキスタンドに所狭しとばかりに並べられたエサをより多く捕食するために、野猿がよくやるように歯をむき出しにして威嚇しあっているわけでもないだろう。

だとすれば野生感覚での虚勢はいまではほとんど意味も持たないはずであり、これを追い求めるのは愚の骨頂だと気付ける。これもひとつの経営である。

だがここで次のような反論がありうる。

それは「人間にとっては虚勢の機能的役割ではなく、情緒的役割がより重要な意味を持っている」という反論だ。すなわち自らが相手の上位に立つこと、尊敬を勝ち取ることそのものが、虚勢を張る人々にとっての満足につながるのだという意見もあるだろう。

しかしここにも落とし穴がある。虚勢を張って相手からの尊敬を勝ち得ようとしても、虚勢自体が尊敬の土台となる友情を壊して、結果的に尊敬は得られないという陥穽・トラップだ。製品の強度を確かめるために金槌で叩いて壊してしまうようなものだ。

多くの場合、虚勢が「相手からの尊敬を得る」という目的を実現させることはない。それどころか往々にして虚勢を張った側が劣等感を抱いてしまうようになる。

大いなる誤算

たとえば「大型家具を買って搬入に苦労したエピソード」や「夜景の見える自宅でビアガーデンごっこをすることで節約したエピソード」を披露することで、さりげなくタワーマンションの高層階に住んでいることを匂わせるような人がいる。しかしそうした人は虚勢合戦に必ずいつか敗北することが宿命づけられている。

その理由は次の通りだ。

この「エピソードトーク内高級タワマン在住主張型の人」は「都心のタワーマンションの高層階に住めることは経済的・社会的な地位が上なあかしだ」という(実は全く自明ではないどころか間違ってさえいる)価値観を受け入れてしまっている。

そのため上記の価値観に染まった瞬間、同じマンションのより上層の住人や、より高級な別のマンションの住民など「同じモノサシで自分より上位の人」が確率的にいってもほぼ必ず一人以上いることになる。

エピソードトーク内高級タワマン在住主張型の人に限らず、仕事や学歴などをめぐる虚勢合戦に血道を上げる人にも同様の悲劇が待っている。

たとえば年収を誇りたい人は、商社、外資系コンサル、外資系金融と、仮に理想のキャリアを爆走できても、その過程で桁違いの資産家と縁が出来てしまう。そうした資産家たちに負けまいとベンチャーを創業するか、創業したての会社の役員に就任して株式市場に上場して莫大な創業者利益のおこぼれを狙いだす。

そうすると先に上場を果たした先輩経営者に劣等感を抱いたり、無事に株式公開(IPO)できたとしても今度は時価総額が気になり始めたりする。こうして、劣等感を振り払うために、好きでもない高級ワインのラッパ飲みと洒落こむ。

ビジネスで大成功したとしても……

もちろん、こうした競争に邁進した挙句に、まれに周囲の誰よりも高い時価総額を達成する人もいる。しかし、そうした人は典型的には古都で教養文化に触れ「歴史に守られた由緒正しき富豪」に敗北することになる。

時価総額自慢型の人は茶室での奇々怪々な作法の数々に右往左往する。そうして由緒正しき富豪から「なんや、新しい、斬新なお作法でんな。そんなふうにお茶は自由に楽しんでもろうたら、それでええんです」などとこの上ない軽蔑/侮蔑の言葉をぶつけられるのだ。

日本の古都に限らず世界中にこうした「ぽっと出の虚勢を潰す文化」が存在する。作法や教養とは要するに「何の役にも立たないことを学ぶのに膨大な時間をかけられるくらい、何世代も余裕のある生活をしてきた」というアピールだ。だから下らなくて意味不明な作法と無駄な知識ほど虚勢潰しの強力な武器になる。

このように虚勢によって尊敬を得るという目的を達することは不可能に近い。

いっそのこと「くだらない年収争いなんぞ興味ない」というスタンスで学歴と教養で虚勢を張ることに必死になる人もいる。そうした人は居酒屋の店員を相手に(専門家からすると大抵間違っている)豆知識の数々を話しちらす。そして決めゼリフは「こう見えて○○大だから」と四半世紀以上前の栄光をちらつかせる。

他人と比較することで劣等感が育まれる


あるとき実はその店員が「居酒屋からみ酒型学歴自慢人」のモノサシからして高学歴だと判明したりする。すると以前の文化的な装いも新たに「今は少子化だから。どうせ大学受験も簡単なんだろ」と狭隘な品性を自ら露呈させてしまう。

このように虚栄/虚勢には経営の失敗がつきものである。虚勢を張って他人と比較し優位に立ちたいという人は、他人と比較したいがゆえに他人と自分に共通して当てはまりそうなモノサシを持ち出す。共通のモノサシがなければ比較が不可能なのだから当然だ。

しかし共通のモノサシは常に自分が一番になるような奇天烈(きてれつ)で異形(ゲリマンダー)なものでもない限り、ほぼ確実に自分より上位の人を含んでいる。こうして、虚勢に精を出す人ほど心に劣等感を育てていく。

SNSが発達した現代ほど誰もが他者からの尊敬に飢えている時代はない。だが、ここまで確認してきたように、真に他者からの尊敬を欲するならば虚勢を張るという「手段」は「目的」に対して不合理なのである。

(岩尾 俊兵 : 慶應義塾大学准教授)