部屋に忍んできた男に紫式部が送った和歌とは(写真:NHK公式サイトより引用)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は部屋に忍んできた男に、紫式部が送った和歌を解説します。

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若いころの紫式部は恋愛をしていたのか

好奇心旺盛で、学問好き、他人の相談事にも乗り、的確なアドバイスをするほどに成長した紫式部。

平安時代と言えば、『源氏物語』の影響もあって、貴族が恋愛にうつつを抜かしているかのようなイメージがありますが、若き日の式部は恋をしなかったのでしょうか?もしくは、誰かに言い寄られたりはしなかったのでしょうか。

『紫式部集』には「方違へに渡りたる人のなまおぼおぼしきことありて帰りにけるつとめて、朝顔の花をやるとて」の詞書(和歌の前に書かれた短文、歌が詠まれた背景事情を説明する)の次に「おぼつかなそれかあらぬか明けぐれの 空おぼれする朝顔の花」との式部の歌があります。

まず、方違えというのは、陰陽道に由来する風習のことです。外出するとき、それが避けるべき方角にあたっている場合、前夜に別の方角に行って宿泊、その後、改めて目的地に行くことを指します。現代人からしたら、かなり面倒な風習であります。しかし、それを当時の人は大真面目にやっていました。

それはさておき、式部の家にも、方違えにやってきた者がいたようです。方違えのために式部が住む藤原為時の邸に泊まった男性が、その翌朝、明け方のまだ暗い時分に、為時の娘の寝室に忍んでいったと思われるのです。

その姿を式部は見たのでしょう。男も見られたことに気づいたようですが、その男は式部が歌に詠むように「空おぼれ」(空とぼけ)して、誤魔化したようです。

面白いのは、式部が先ほどの歌をその男に送っていることです。男からの返歌も載っていることから、そのことがわかります。

まず、式部の歌を訳してみましょう。「どうもはっきりしませんね。あなただったのでしょうか。それとも違ったのでしょうか。明け方の暗がりのなかで、顔をお見せになりながら、誰ともわからぬ振りをされて」というもの。

それに対し、男は「いづれぞと色分くほどに朝顔のあるかなきかになるぞわびしき」との歌を寄越したのでした。

「どちらから頂いた歌かといろいろと考えているうちに、たちまち朝顔の花は萎れ、色褪せてしまったので、見分けられなくて困っています」というような意味です。

「どちらから頂いた歌かといろいろと考えているうちに」と男が言うのには、理由があります。

式部には、年齢がたいして変わらない姉がいたのです。そのため、男は、式部の姉から送られた歌なのか、式部自身から送られた歌なのかわからないといろいろ考えていたというのです。

式部は、この男の返歌に「手を見分かぬにやありけむ」(どちらの筆跡か見分けがつかなかったらしい)と注釈を付けています。

女部屋に忍んできた男に和歌を送る

それにしても、女部屋に忍んできた男に、和歌を送り付けるとは式部も大胆です。男性のほうから歌を送ることは多々あったでしょうが、女性から送るというのも珍しいと言えるでしょう。

しかも、普通ならば、急に忍んできた男に嫌悪感を持つか、気味が悪いと思うものですが、式部にはそれがなかったようです。実にあっけらかんとしています。

面白がって、男をからかっているようにも見えます。もっと言うと、歌を送るということは返歌を期待してのこと。その後もやり取りが続く可能性もあります。

式部はその男に関心も持ち、恋愛関係になってもいいくらいに思っていたのではないでしょうか。式部とこの男とのやり取りをもっと「過激」に解釈する人もいます。

それは例えば、式部の歌を「私に変なことをしておきながら、本当に私が好きなのか嫌いなのか、はっきりしない態度をとって帰っていった翌朝」に送ったものとし、歌の意味を「あなたはいったい、本気でなさったの、それとも一時の気まぐれなの。明け方に出ていらっしゃるとき、薄暗い明け方の空に朝帰りのそのお顔を紛らわして、空とぼけていらしたわね」と解釈する人もいるようです。

この意味にとるならば、式部とその男とは以前から少しは交流があったととることもできますし、何より、この時2人は肉体関係にあったということになります。式部がこの歌を詠んだのは、20代前半と言われています。

忍んできた男性は何者だったのか

では、式部と姉がいる部屋に忍んできた男は何者なのでしょうか?式部の父・藤原為時の同僚や、はたまた後に式部の夫となる藤原宣孝ではないかとさまざまな説があります。もし、後の夫だったとしたら、それはそれでロマンチックではあります。

今回の歌の件を見ても、紫式部はかなり大胆で、情熱的な面があったことがわかります。人間の行動をおかしみをもって見る余裕もあったのでしょう。

その一方でこんなエピソードもあります。

式部は「祓へどの神の飾りのみてぐらに うたてもまがふ耳はさみかな」という歌を残しています。これには「弥生のついたち、川原に出でたるに、傍なる法師の紙を冠りにて博士だちをる憎みて」との詞書があります。


京都・賀茂川(写真:tonbokun / PIXTA)

当時の人々には、三月上巳(一日)に川原に出て、禊ぎをし、罪穢を祓い流す習慣がありました。人形を作り、それに人間の穢れなどを移し、川や海などに流すことも行われました。都の人々は、そうしたことを賀茂川で行っていたため、式部が言う「川原」とは、賀茂川のことでしょう。

さて、人々の罪穢を祓い流す仕事は、本来は陰陽師(陰陽博士)が行うものでした。

しかし、川原に着いてみると、そこにいたのは、紙の冠を坊主頭にかぶり、陰陽師の真似事のようなことをやっている僧侶でした。もしかしたら、その僧侶は陰陽師の真似事のようなことをして、人々から謝礼を受け取っていたのかもしれません。それを見た式部は憤り、前掲の歌を詠んだのではないでしょうか。

若いころから批判精神が備わっていた

陰陽師でもないのに、得々として、お祓いをしている僧侶の態度を嫌らしいと感じたのでしょう。この歌は、式部17歳頃のものとも言われており、式部の心には、批判精神というべきものも、育っていたと言えるでしょう。

(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)