集団の価値観で出生率は変わるのか(写真:Graphs/PIXTA)

日本をはじめとする先進諸国では都市部を中心に出生率の低下が社会問題となっていますが、超正統派ユダヤ教徒であるハレーディームは、アメリカ国内においてほぼ例外なく都市部に居住しながらも出生率が高く、人口が急増しています。

宗教や信条といった集団の価値観が、出生率に影響することはあるのでしょうか。ロンドン大学の人口学者であるポール・モーランド氏が、2人の女性の事例を紹介しつつ解説します。

※本稿はポール・モーランド氏の新著『人口は未来を語る』から一部抜粋・再構成したものです。

出生率の高い白人集団「ハレーディーム」

超正統派ユダヤ教徒(ハレーディー、複数はハレーディーム)もまた、アメリカで人口拡大中の白人集団である。ほかの高出生率のマイノリティとは異なり、ハレーディームはほぼ例外なく都市部に住んでいて、しかもだいたいは出生率が低い州の都市部である。

それにもかかわらず、ブルックリンのウィリアムズバーグやバラパークには数万人規模のハレーディームのコミュニティが複数あり、その家族規模は世界でもっとも出生率の高い国々の家族と変わらない。人口は急増していて、今のところその勢いが鈍る気配はなく、当然のことながらコミュニティは新たな住宅を求め、居住域を広げつつある。

ハレーディームはイスラエルの人口増加にも寄与している。長期にわたって大家族を築いてきた集団では普通のことだが、彼らのコミュニティも若い。彼らの場合、人口の60パーセントが20歳以下だが、彼ら以外のユダヤ人全体では30パーセントが20歳以下である。だがイスラエルで子だくさんなのはハレーディームだけではない。出生率は宗派を問わず全体的に高く、先進国とは思えないレベルである。

イスラエルの女性はシンガポールの女性のほぼ3倍の子供を産んでいて、それでいて教育水準も高い。またアメリカと同じようにイスラエルでも、信心深いかどうかとは別の問題として、政治的に保守的な集団のほうが子供の数が多い。

「イスラム教徒の方が子供が多い」は思い込み?

なんらかの価値観に基づいて出生率が変わることがあれば、人口動態に関するわたしたちの想定の多くが覆ることになる。ユダヤ人の子供の数は、イスラム教徒が圧倒的に多いアラブ人などの諸民族よりも少ないと思っている人がいたとしてもおかしくないが、それはもはや事実ではない。1980年代前半には、イスラエル人女性が産む子供の数はイラン人女性の半分にも及ばなかった。今ではそれよりずっと多くなっている。

ただし世界全体を見渡してみると、ユダヤ人も決して一様ではない。イスラエルでは全体的に合計特殊出生率が高く、もっとも宗教色の薄いコミュニティであっても人口置換水準を超えている。一方アメリカの世俗派のユダヤ人はアメリカ国内のあらゆる人種グループのなかでもっとも出生率が低い集団のひとつである。

人口統計学者のなかには、広く少子化が進行する第二の人口転換のことを、家族を持ちたいという願望が個人主義に取って代わられるからだと説明する人がいるが、そのような普遍的な傾向の存在は誇張の産物でしかない。実際はもっと複雑で、人々のものの考え方、イデオロギー、宗教が、それぞれに出生率の上昇や下降との結びつきを徐々に強めている。

キリスト教やユダヤ教のコミュニティと同じように、イスラム教国でも宗教的帰属・実践と大家族は関連している。同じ社会のなかでも、あるサブグループは大家族を望み、別のサブグループは小家族を望んでいる。そしてそのような一律ではない指向が、国の内部の、あるいは国家間の人口バランスを変化させていく。モルモン教徒の現在の人口は1947年の15倍だが、それは少なくとも部分的には、高い出生率に支えられてのことだ。

やがて「出生率の高い宗教集団」だけが残るか

そうなるとこんな考えも浮かんでくる。子だくさんをよしとするこれらの集団の子孫が同じ考え方を長期的に継承していくとしたら、やがて世俗主義の社会は姿を消し、宗教集団だけがこの地球を受け継ぐことにならないか。

いや、そこには何の確実性もない。宗教集団が拡大を続けるためには、出生率だけではなく信者の維持も同じくらい重要である。だがこの点については十分なデータがない。イスラエルでもほかの国々でも、ハレーディームの生活様式から離れていく人々がいるのは確かなのだが、どうやらその人数は、今のところ彼らの自然増加に比べると少ないということなのだろう。

社会全体で見れば、アメリカでもヨーロッパの多くの国でも宗教離れが進んでいる。前近代の都市が人口維持のために絶えず農村からの人の流入を必要としたように、現代の世俗主義の社会も、自分たちより伝統的で出生率の高いコミュニティから随時人を招き入れている。だが、入ってきた人々の出生率はその後下がる傾向にある。

こうしたことから考えると、未来は子だくさんの文化を育むことができ、それを維持することができ、かつ自分たちから離れていく人数を低く抑えることができる社会に委ねられていくように思える。

子だくさん高学歴女性のストーリー

ある金曜の朝、わたしは2人の女性の友人に頼んで、人口についてのディスカッションに付き合ってもらった。すでに述べたように、高学歴の女性ほど子供の数が少ないという傾向があるのだが、この2人はこの傾向から外れているので、ぜひとも話を聞いてみたかったのだ。

サラはケンブリッジ大学卒で、6人の子供がいる。ヴィッキーはオックスフォード大学卒で、7人の子供がいる。2人はなぜそんなにたくさんの子供を望んだのかを知りたかった。

サラもヴィッキーもユダヤ教正統派だが、ものの見方は現代的である。わたしが感じたのは、この2人の子だくさんは、厳密な意味での宗教的義務などではなく、多産文化に組み込まれた子供への愛情によって説明できるのではないかということだった。ヴィッキーは自宅で地域紙の編集をしている。サラは子供が生まれるまで弁護士だったが、今は外では働いていない。

2人は知的で高学歴だが、自分にできることのなかで出産・子育てがもっともやりがいがあると感じている。「7人の子供を産んで、その全員を心豊かな、分別と責任感のある人間として社会に送り出すっていうのは、このうえなく創造的でやりがいのあることだもの」とヴィッキーは言う。

2人とも小家族を選択した人々を非難するつもりはなく、子供を持つことができない人々への思いやりも忘れてはいない。だが社会全体としての少子化について語るとき、2人の口からはどうしても「利己的」という言葉が出てくる。現代の都市化した世界で子供をたくさん持つのは、とんでもなく大変だというわけではないと2人は言う。

小さな家族は「利己的」なのか

ときには休日に大家族用のレンタカーを借りるのが大変だったり、イベントのチケットを人数分予約するのに苦労したりするが、そんなことは些細な不都合でしかない。サラとヴィッキーから見れば、小家族を選択した人々は、新しい命を生み出すことよりも自己啓発や休暇、子供1人に1部屋を確保することなどを優先させていることになる。


その選択について誰かを非難しようというのではないが、そういう選択がなされる社会について、彼女たちは次のように説明している。今わたしたちが生きているこの世界では、個人の目標や一定の生活水準の達成が規範になっているが、その規範は大家族を持つことと折り合いをつけるのが難しいのだと。突き詰めれば、それらの達成を望む場合、そもそも家族を持つのは無理だということになりかねない。

一方サラは、大家族を持つことにした自分のほうが利己的だという可能性もあるのではないかと指摘した。欧米の、とくに大量消費・大量排出が止まらない先進国では、子供を持つことのほうがむしろ身勝手ではないかという疑念が広まりつつある。この問題を提起したのはアメリカの下院議員アレクサンドリア・オカシオ=コルテスだった。

「わたしたちの子供の時代には生きていくのが容易ではなくなるということが、基本的な科学的合意として形成されています。ですから若い人たちが、それでも子供を産んでいいのかと躊躇するのはむしろ当然のことでしょう」

(ポール・モーランド : 人口学者)