"ステージ4"の母の病床で「朝ごはんどうする?」を連呼する認知症の父…出産直後の娘の"頭も心も爆発"の瞬間
■告知翌日のタスク
67歳の母親ががん告知を受けた翌朝、東北地方在住の春日暁美さん(仮名・30代・既婚)は、自身の産後の痛みと母親の状況から、延び延びになっていた助産師訪問を受けた。
そこで助産師に現在の両親の状況を説明すると、「お父さんの要介護認定は受けた方がいい」とアドバイスされる。さらに、「仕事を続けるべきか悩んでいる」と話すと、「介護離職は絶対にやめた方がいい。いつの日か必ず『お父さんのせいで仕事を辞めることになった』と思ってしまう時がくる。退職をしないためにも、まずは介護保険の申請!」と背中を押された。
午後、父親(72歳)が4年前に胃と食道の接続部のがんになってから3カ月に1度のペースで通っている脳神経内科に父親の付き添いで行くと、医師からも介護保険の申請を勧められた。春日さんは数日前、保健師をしていた友人にLINEで相談したところ、やはり同じことを言われていた。
春日さんは、父親の病院から帰宅するなり、その足で地元の地域包括支援センターに向かう。娘はテレワーク中の夫に午後から休みをとってもらい、任せていた。
包括支援センターでは、介護支援専門員から、「今日は介護保険の申請に? 今回申請しようと思ったのは何かきっかけが?」とたずねられる。
春日さんは、「はい、父が認知症で。でも日常生活は自力ででき、今までは母が相手していたんですけど……」と話し始めるなり、涙が止まらなくなった。
「もう、頭も心も爆発しそうだったんだと思います。介護支援専門員さんは、私が話すこと全てを傾聴し、寄り添ってくださり、話を聞いてくれるだけですごく救われる思いがしました」
申請書を書き、父親に借りてきた運転免許証と保険証で、すぐに申請は終わったが、最後に、介護支援専門員からこんな話があった。
「あなたのことがとても心配。介護保険を利用してお父様を安心して預けられる場所を探して、自分のペースでお子さんと過ごせる時間をつくったほうがいいと思う。まず優先すべきはお子さんよ。お仕事は、続けられるように職場に相談することをおすすめするわ。今退職してしまったら、『両親のせいで』といつの日か思ってしまうと思う」
春日さんは翌日から、来春、娘を保育園に入園させ、復職するために保活をスタートした。
■父親の介護認定と母親の手術
母親の入院から4日後の夜、春日さんが娘を寝かしつけ、自分もウトウトしていたところ、突然ドアが叩かれ、春日さんは飛び起きる。もちろん娘も目を覚まし、大泣きだ。
ドアの外には父親がおり、「お母さんがどこにもいないんだ!」と慌てた様子。「え? 4日前に入院したじゃん……」春日さんは絶句した。
それからというもの、父親の妄想やおかしな言動が急増。メガネなど落としていないのに、「メガネの落とし物があったと警察から連絡があった」と言ったり、母親は亡くなっていないのに、「母さんが亡くなったのがあまりに短期間だから病院を訴えよう」と言ったり、「母さんが危篤だと連絡があった」と言ったり、「今日から僕は入院するんだろ?」と言い出したりし、その度に納得させるのに骨が折れた。
2022年5月。抗がん剤の1クール目を終えた母親の退院に合わせ、父親の介護認定調査を受ける。父親のことを一番良く知っているのは、やはり母親だからだった。
翌日、母親は2クール目の抗がん剤治療に入り、10日後に退院すると、延び延びになっていた娘のお宮参りを決行。うれしそうな母親と、笑顔の家族を眺めながら、春日さんは心から、「この日が迎えられて良かった」と思った。
6月。父親の介護認定調査の結果が出た。要介護1だった。
7月。春日さんの保活はピークを迎えていた。娘を抱っこ紐に入れ、1日に2園回るなど、汗だくで保育園見学に奔走していた。
一方、抗がん剤治療の5クール目に入るために入院した母親は、肝臓に転移した腫瘍が大きくなり、胆管を塞いだせいで黄疸が出、肝臓の数値が悪いため、抗がん剤治療はストップし、内視鏡手術を受けることになった。
その連絡を受けて春日さんは、再び包括支援センターへ向かう。要介護1と認定された父親はどのようなサービスが受けられるのかを聞いておくためだった。
すると、以前対応してくれた介護支援専門員が、「看護小規模多機能型居宅介護(看多機)」を勧めた。「看多機」とは、通所(デイサービス)・宿泊(ショートステイ)・訪問看護と介護を、すべて同じスタッフが行ってくれる施設だ。
「通所」により、日中父親が家を空けることで、春日さんが育児や家事に集中できる。
「宿泊」により、母親に何かあったときに、夜間の父親を預かってもらうことができる。
「訪問介護」は、急に父親の認知症の症状が進んだときに、家で介護もしてもらえる。
というメリットがあると説明された。
「父が実際に行ってくれるかどうかは置いておいて、とてもいいと思いました。『ここのサービスを受けている間は、他のサービスを利用することができない』『利用ごと払いではなく、月額払い』というデメリットはありますが、当時の私には、保活とは違い、デイサービスを調べて選ぶ労力も時間もありません。ほぼ私の心は決まりました」
母親の手術は成功し、8月に退院することができた。
■母親の涙
退院後は、ずっと計画しては母親の体調が優れずキャンセルしてきた、ホテルのランチへ家族5人で出かけることができた。
その後、新しい薬に切り替えるための1週間の入院に入り、退院。抗がん剤治療を計4クール受け、新しい免疫療法を始めたものの、ほとんど体調に改善が見られない母親は、家の中でほとんどの時間、横になっていた。認知症の父親は、母親ががんであることを覚えていられず、「おい、どうした? 寝るならメガネ取りなよ」といつもメガネを外してしまった。
ある日、起き上がった母親がメガネを探そうとしたところ、クッションに足を取られ転倒。春日さんの家は、2、3階が両親の居住エリア、1階が春日さん夫婦の居住エリアだ。2階からものすごい音と衝撃があったため、春日さんは急いでまだ8カ月の娘を抱きかかえ、2階に上がる。すると倒れた母親の側で、父親がしゃがんでいた。
真っ青になって駆け寄る春日さんとは対照的に、父親は、「なんでこんなところで転ぶんだよ〜、おっちょこちょいだなぁ」と言って笑っている。
母親は、「あなたがメガネをとるからよ‼」と珍しく大声を出す。父親は「こんなところで転ぶなんて、僕の物忘れのこと言えないな〜」とニヤニヤ。カチンと来た春日さんが「お父さんがメガネ外すからでしょ! お母さん体調悪いんだから静かにしてよ!」と言うと、「何だその言い方は!」と父親もムッとする。2人が言い争いをしていると、「私もう大丈夫だから。休んできたら?」と母親が、やんわりと父親を追いやる。すると父親は、素直に自室に去った。
春日さんは母親の後頭部を冷やし、2人で父親の愚痴を言い合った。しばらくして、母親は「トイレに行きたい」という。横たわっていたところから、お姉さん座りにさせ、次に膝立ちになって万歳をしてもらい、立っている春日さんが手を引き上げようとした瞬間、母親が春日さんの両足にしがみついて泣き出した。びっくりした春日さんは、しがみついた母親の手をさすりながら、
「わかる。わかるよ。情けなくて、やるせないんだよね」
と声をかけた。母親はただただ、声を押し殺して、何度もうなずきながら泣いていた。
「母は、自分がこんな体になってしまったこと、父に言いたいことがたくさんあるのに言う気力もないこと、孫ともっと遊びたい、これからも成長が見たいのに、それがかなわなそうなこと、こんな姿を娘に見せたくないのに、でも娘を頼らざるをえないこと……。いろいろな感情が溢れ出したんだと思いました」
春日さんは母親に気づかれないように、上を向いて泣いた。
■母親の誕生日
8月下旬。母親は68歳の誕生日を迎えた。
大切な日のみならず普段からおしゃれに手を抜かない母親はこの日を、薄化粧とルームウエアで迎えた。
「お店でお祝いをしましょう」という義母の提案をありがたく思いながらも、身体が思うように動かせない母親のために断り、自宅で祝うことに。
春日さん夫婦がちょっとぜいたくなお弁当やお総菜をデパ地下で購入すると、義両親はバースデーケーキを用意してくれた。
すっかり食が細くなっていた母親だが、大好物のウナギのお弁当とケーキは、いつもよりたくさん食べられた。
しかしその夜もその翌日も、母親はほとんど何も食べられなかった。体調を崩してから、2階のリビングに布団を敷いて寝ていた母親は、トイレに行くときなど、起き上がるのがとてもきつそうだった。そこで春日さんは、自分が使っていなかったベッドのマットレスを、母親の布団の下に敷いた。すると母親は「わあ、起きやすい! ありがとう!」と言って喜んだ。
そのとき春日さんは、母親も介護保険を申請し、介護ベッドをレンタルすることを思いつく。すぐに包括支援センターへ行くと、最短で4日後にベッドが届くことになった。
母親の誕生日から3日目の金曜日、母親に再び黄疸が出た。心配する春日さんに母親は、「月曜日が通院日だから大丈夫」と言う。春日さんは「土日でも変化があったら言ってね」と念を押し、その日は就寝した。
土曜日の朝、母親は家族と一緒にそうめんを一口食べた。日曜日、春日さん夫婦と娘は、義両親と義弟と夕食を食べに行く約束をしていたため、夕方から家を空ける。春日さんは母親のことが心配なうえ、娘はまだ8カ月なため、夜の外出は気が進まなかったが、随分前から約束していたことなので、今さらキャンセルすることははばかられた。
21時ごろに帰宅すると、母親が横たわったすぐ側に、父親が立って見下ろしている。母親は「おかえり」と言うものの、いつもに増して体調が悪そうなうえ、小声で「痛くてつらい。早くお父さんどっか行かせて」と切実そうに訴える。
「痛い⁈ 今から病院行く?」と春日さんがたずねると、酒臭い父親が「どこに行くんだ?」と口を挟む。するとうんざりした様子で「大丈夫。明日にする。お父さんはもういいから寝てよ」と母親。
すかさず父親は「なんでもうちょっと優しく言ってくれないんだ⁈」と大声を上げる。
「体調悪いから。そっとしておいてあげてよ」と春日さんが諭すと「なんで夫婦なのに話したらいけないんだ? なぁ! 2人で話すなよ‼ 無視するな‼」と父親はますますヒートアップ。
どうやら、春日さんたちが出かけてからというもの、1分と間を空けずにずっと父親は、
「体調悪いのか?」
「起きないのか?」
「ご飯どうする?」
「娘たちはどこいった?」
「娘たちはいつ帰ってくるんだ?」
と、繰り返していたようだ。
この日、春日さんと父親は、今までになく激しく言い争い、見かねた夫が珍しく助け舟を出しても、これまた珍しく「キミは黙ってろ!」と夫にまで声を荒らげた。結局父親は、母親が横たわるリビングに掛け布団だけ持ってきて寝てしまった。
この日、春日さんは、「お父さんを施設に入れなければ、お母さんの頭がおかしくなって死んじゃう」と真剣に考え始めた。
■もう顔を見たくない
月曜日の朝、6時半ごろに目を覚ました娘に授乳して再度寝かしつけ、リビングに行くと、母親が弱々しい声で「おはよう」と言った。父親は朝早くにいつもの掃き掃除に出たようだ。
母親がトイレに行きたいと言うため、春日さんが起こそうとするも、少しも身体に力が入らない様子で、「無理」と一言。慌てて夫を起こしに行き、手伝ってもらって母親をトイレに行かせると、病院に電話し、受診の時間を早めてもらう。
母親を病院へ連れて行くため、2階から降ろそうにも、母親は身体に力が入らないようで、車に乗せるのも一苦労。夫と春日さんが2人がかりで車に乗せる間、1人寝室に残された娘はわあわあ泣き、戻ってきた父親は、「おお、みんなそろってるな。朝ごはんどうする?」と昨晩のことをすっかり忘れた様子で話しかけてくる。春日さんと夫はこのとき、「お母さんはもう、家に戻ってこられないかもしれないな」と思っていた。
病院に着くと、母親は初めて、車椅子を拒否せずに乗った。医師が来るまでの間、母親は処置室で横にならせてもらう。そこで春日さんは、意を決して母親に言った。
「もうお父さんの相手するの無理じゃない? お父さんが施設もデイサービスにも行ってくれないなら、お母さんがどこかの施設に入るってのはどう? 私はお母さんにゆっくり休んでほしいの。良いところ探すし、私がお金出すから……」
すると母親は、「いいよ。……もうさ、お父さんの顔を見たくないの……」と、痛みに耐え、目をつむったまま言った。
「ショックでした。父が認知症になる前から母は、どこに行くにもついてくる父を嫌がっていましたが、なんだかんだ言っても仲が良い両親だったのに……」
その日、母親は緊急入院となった。(以下、後編へ続く)
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。
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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)