梨田昌孝が目指した監督像は、西本幸雄と仰木彬の「いい部分を融合させた形」だった
野球人生を変えた名将の言動(11)
梨田昌孝が語る西本幸雄 後編
(中編:「江夏の21球」無死満塁になって西本幸雄監督の表情が「ふっと緩んだように見えた」>>)
梨田昌孝氏に聞く、西本幸雄監督の指導論と"闘将"の素顔。その後編では、梨田氏のトレードマークとも言える「こんにゃく打法」が誕生したきっかけや、日本ハム監督時代の糸井嘉男とのエピソードなどを聞いた。
近鉄の監督を務めていた西本監督(左)と選手時代の梨田
――西本監督のもとで野球をされてきた中で、新しい発見はありましたか?
梨田 たぶん西本さんと出会っていなかったら、長く第一線でやれるような選手になっていなかったと思います。私の「こんにゃく打法」も、ある意味で西本さんへの反発から編み出したものですから。
――どういった反発があったんですか?
梨田 西本さんは打撃の指導をする際、「上からバットのヘッドを立てて打て」と言うのですが、私はちょっとヒッチ(スイングの過程で、バットを上下に動かして打つ動作)する癖もあったせいか、それができなくて。
それで編み出したのが、へそのあたりにグリップを置いてタイミングを取る「こんにゃく打法」だったんです。私の場合はそうすることでバットのヘッドが立つようになった。ただ、西本さんに反発して独自に取り組んだことなので、クビやトレードは覚悟していました。
――その打法について何か言われましたか?
梨田 「お前、何してんねん」と怒られるかなと思っていたんですが、西本さんはじっと見ていてくれた。「こいつには自分の考えがあって、こういう打ち方にしているんだろうな」という感じでしたね。ダメだとも言わないし、いいとも言わない。ほったらかしにされていたのかもしれませんが、ただ見守ってくれていました。
――西本さんは自分の考えに妥協しない頑固な部分もありながら、ケースバイケースで判断する柔軟性もあったということでしょうか。
梨田 そうですね。先ほど(前編)も話したように、私や羽田耕一には"鉄拳制裁"もありましたが、石渡茂さんには絶対に怒らなかった。怒られることでの反骨精神で力を出せる選手、怒ったらシュンとなってダメになる選手もいるんですが、そういった個々の適性を見抜いていたんでしょう。そういう面が勝負師というか、ちゃんと見られていたんだなと思います。
――梨田さんは近鉄、日本ハム、楽天の監督を歴任されましたが、西本さんの教えが指導者になって生かされましたか?
梨田 すごく尊敬はしていますけど......やはり当時の厳しい指導法は今の野球では通用しませんよね。でも、西本さんの「この選手を一人前にしてやろう」という妥協なき愛情というか、そういうハートを持って選手を見るようにしていました。
あと、私は現役時代の最後に仰木彬さん(1988〜1992年に近鉄の監督を務める)の指導も経験したんですが、その教えも生かしたいと思っていました。おふたりのいい部分を融合させた形を出そうと。
――西本監督と仰木監督、それぞれの監督としての特徴は?
梨田 西本さんは「ひたすら練習」で、強制的な部分がありました。それと、当時は近鉄の試合は記事にならなかったのですが、阪神など人気球団の試合がない日には「今日勝ったら、新聞でちょっと大きく扱われるぞ」と選手たちに発破をかけることもありましたね。
仰木さんは、勝率5割くらいをキープしていれば「優勝できるチャンスがある」と考えるタイプでした。それと「サイン間違い」は絶対に許さなかったですね。西本さんはサインを間違えてもそこまで怒らなかったのですが、仰木さんはサイン間違いとか、状況判断ができない選手はスタメンから外していきました。
――梨田さん自身が監督をされていた時は、サインに関してどうしていましたか?
梨田 印象に残っているのは、日本ハムの監督だった時のことですね。まだ若手でブレイク前の糸井嘉男がサインを覚えられなくて(笑)。でも、彼のポテンシャル、身体能力はすごいので、「なんとかこの選手を使いたい」って考えていたんです。
コーチたちの間では「糸井はサインがわからないから外そう」という話もありましたが、コーチ会議で「(使うか使わないか)監督が決めてください」と言われた時に、「よし、わかった。糸井を明日から"外国人選手登録"にする」と冗談で答えたんです。
――それはどういうことですか?
梨田 外国人選手にサインを出す場合、走る時は指を1本出したり、グーやパーにしたりという感じなので、シンプルで楽なんです。だから、糸井にも同じようにしてやろうと。そうすればサインで悩むことがないので。それから6年連続で3割を打ちましたけど、不安を取り除いたことがいい影響を与えたんだろうなと思います。
それからしばらく経って、糸井はオリックス、阪神に移籍してからも頑張っていましたね。やっぱり監督は選手のいい部分を見抜いて、その気にさせて伸ばしていってやらないといけません。「ここはダメ、ここもダメ」では選手は伸びない。西本さんが近鉄の監督になられた時、私に対する第一声は「お前ら(球団事務所に呼ばれた梨田と羽田の2人)がおるから来たんや」でしたが、それで気が引き締まりましたし、私をその気にさせる言葉だったと思います。
――ちなみに西本さんは、グラウンド外ではどんな方でしたか?
梨田 グラウンドの内と外では違いましたね。ある時には麻雀のメンバーが足りなかったみたいで、「ナシはできるだろ? 人がおらんから来い」と言われて参加したことがありますが、その最中の笑顔がけっこうかわいいんです(笑)。「かわいい」っていうのは失礼ですけど、やっぱり笑顔っていいなと思いましてね。グラウンドの中では決して見せない表情でしたから。
――グラウンドの中ではポーカーフェイス?
梨田 そうですね。ほとんど表情を崩さない方でした。ただ、監督もタイプはいろいろですから。喜怒哀楽を出さない監督もいれば、中畑清みたいに出しすぎる監督もいたりね(笑)。
――あらためて、梨田さんの野球人生にとって、西本監督との出会いは大きかった?
梨田 間違いないです。私は高校3年(浜田高/島根県)の時に甲子園の夏の大会(1971年)に出て、1回戦で初出場の池田高校と対戦したのですが、その時に見た池田の蔦文也監督の印象が強烈で。不動明王のようなドーンとした眼光というか、視線を感じたんです。「うわぁ、この方はいずれ、すごい監督になるんだろうな」と思いましたが、"名将"と呼ばれるまでになりました。
西本さんが近鉄の監督に就任され、最初にお会いした時の雰囲気もそれによく似ていたんです。迫力のある佇まいで、第一声から身を引き締めてもらいましたし、選手だけでなく監督としても私を引き上げてくれた。本当に西本さんに出会えたことに感謝しています。
(連載12:○○>>)
【プロフィール】
梨田昌孝(なしだ・まさたか)
1953年、島根県生まれ。1972年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。強肩捕手として活躍し、独特の「こんにゃく打法」で人気を博す。現役時代はリーグ優勝2 回を経験し、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回を受賞した。1988年に現役引退。2000年から2004年まで近鉄の最後の監督として指揮を執り、2001年にはチームをリーグ優勝へと導いた。2008年から2011年は北海道日本ハムファイターズの監督を務め、2009年にリーグ優勝を果たす。2013年にはWBC 日本代表野手総合コーチを務め、2016年に東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任。2017年シーズンはクライマックスシリーズに進出している。3球団での監督通算成績は805勝776敗。