本能寺の門前(写真: skipinof / PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第30回は本能寺の変の勃発と、家康がとった行動を解説する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

青天の霹靂とは、まさにこのことだろう。

織田信長が明智光秀に討たれるという「本能寺の変」が起きたとき、徳川家康は堺の地にいた。信長から「京や堺のあたりを見物して回るとよい」と提案されて、長谷川秀一(竹丸)というお供までつけてもらったので、それに従ったのである。

「京都において御茶湯御遊覧等あるべし」

宇野主水(うの・もんど)は、本願寺の門主である顕如(けんにょ)に仕えた右筆で、『宇野主水日記』を残したことで知られる。「本能寺の変」の背景を調べるにあたって、欠かせない史料といえるだろう。

信長からすさまじい接待攻勢を受けていた

先の記述は『宇野主水日記』からのもので、5月27日と28日における、家康の動向を記したものだ。京都で茶の湯の接待を受けたことがわかる。

その後、29日の晩には堺で、宮内法印(松井友閑)の接待を受けた家康。6月1日にいたっては、堺の商人で茶人である今井宗久による朝の茶会が開かれてから、昼にはまた茶会、そして夜には宴会と、すさまじい接待攻勢を受けている。

信長としては、安土の宴席にて、明智光秀が用意した魚が腐っていたのが、よほど忸怩たる思いだったのだろう(記事「徳川家康、信長への「やりすぎ接待」の思わぬ波紋」参照)。失態を取り返すかのように、家康は織田勢から連日のもてなしを受けることになった。

接待を受けながら、家康も信長と、これからどんな関係性を築いていくべきかについて、今後の展開とともに思いを馳せていたに違いない。

しかし、あくる日の6月2日、家康が描いていていたであろう、今後のプランは大きく変更を迫られることになる。

先発した本多忠勝がすぐに戻ってきたワケ

6月2日、家康は再び京に戻ろうとしていた。信長に到着を事前に知らせるためだろう。側近である本多忠勝を先に京へと向かわせている。

だが、その道中で、忠勝のそばへと馬を寄せてきた1人の男がいた。京都の豪商として知られる茶屋清延である。信長がつけたお供から「京では茶屋という家を宿所にするとよいだろう」とあらかじめ伝えられていたが、なぜこれから京に向かうのに、わざわざ迎えに来たのか。

その理由を尋ねるよりも早く、忠勝は茶屋から、次のような衝撃的な事実を聞かされる。「明智日向」は明智光秀、「中村殿」は織田信忠のことをである(『徳川実紀』)。

「世はもはやこれまでです。今朝方、明智日向が反逆し、織田殿の宿所に押し寄せ火を放って攻撃し、織田殿は切腹され、中村殿も亡くなられたと承りました。このことを申し上げようとやってきたのです」


本能寺の信長公廟(写真: Skylight / PIXTA)

とんでもないことになったと、忠勝は茶屋を伴って、家康のもとへと急ぐ。

家康からすれば、まもなく発とうとしたときに、忠勝がただならぬ様子で引き返してきたので、不審に思ったのも当然のことだろう。井伊直政・榊原康政・酒井忠次・石川数正・大久保忠隣らだけを、そばに呼んで、茶屋から事情を聞くことになった。

このとき、家康の脳裏には「桶狭間の戦い」のことが頭に浮かんだのではないだろうか。あのときは、家臣たちと大高城で休んでいる時に「総大将の今川義元が討たれた」という知らせが舞い込んできた。はたしてどうするか。家康が目指したのは、妻子が待つ駿府ではなく、岡崎城だった。

今回もまさに判断は一刻を争うことになる。『徳川実紀』では、まず家康は信長の仇を討つという考えを瞬時に検討したことがわかる。

「私は長きにわたって織田殿と深く親交を結んできた。もう少し人数を引き連れていたなら、光秀を追いかけ織田殿の仇を討つが、これほどの少人数ではそれもかなわないだろう」

確かに、このときにお供として連れてきていたのは、重臣30人ほどだった。光秀を討つには、あまりに少人数である。次に考えたのが、信長とともに自決するという道である。家康は次のように言葉を続けた。

「中途半端なことをして恥をかくよりは、急いで都に上って知恩院に入り、切腹して、織田殿と死をともにしよう」

家康が天下統一を果たすことを知っている私たちからすると、「信長が死んだから」と自決しようとするのは、ずいぶんと乱暴な思考のように思うかもしれない。

だが、このとき、家康は明智光秀から差し向けられる討手から逃げなければならなかった。当然、見つかりにくい山道を選んで逃げる必要があるが、そこには「落ち武者狩り」が横行しているに違いない。

戦に敗れた武士から甲冑や武器などをはぎとってしまう「落ち武者狩り」は、地侍や農民たちとって臨時収入である。特に家康の首ならば、敵側に持っていけば、大きな報酬となるだろう。

狙われるほうからすればたまったものでない。さっきまでの接待漬けのリラックスタイムとは、天と地ほど差がある、窮地にいきなり追い込まれたのだ。いっそ無様な最期をさらすくらいなら、と家康の頭に自決がよぎったのは、無理もないだろう。それくらい絶望的な状況だったのである。

信長を追って自決しようとした

思えば、家康は桶狭間の戦い後も「自決しようとした」という逸話が残っている。「今川義元が討たれた」と知らせを受けた家康はすぐに、岡崎城に入ろうとするが、まだ今川方の城兵が残っていため、いったん大樹寺に立ち寄っている。

今川の兵たちが立ち去るのを待っていたわけだが、首尾よくいくという保証はない。一説では、このときに、家康は先祖の墓の前で自決しようとしたという。

死に急ぐ家康を説得したのが、住職を務める登誉天室だといわれている。登誉天室は家康の祖先にあたる松平親忠について、こう言い聞かせた。

「親忠様は、子孫から征夷大将軍が出ることを願い、寺の名を大樹寺としたのだ」

「大樹」とは将軍の別称である。祖先の思いに触れて、家康がこのときは自決をとどまったという。話としてはできすぎているが、「ここぞ」というときでの家康の判断は大胆で、確かに死を恐れていないようにも思える。

もしかしたら、いったん「自決」という極端な方向を考えることで、文字通り、死ぬ気になって物事にあたるのが、家康のやり方だったかもしれない。

この「本能寺の変」を知ったときも、自決を覚悟しながらも、家康は生きる道を選ぶことになる。忠勝から「信長の恩に真に報いようと思うのであれば、まずは本国に帰り、軍勢を率いて光秀を討つ、それこそが大切なのではないですか」と説かれると、酒井忠次や石川数正らもそれに同調。家康も、最終的にはその提案を受けいれている。

「伊賀越え」を決意した家康

明智勢にも、落ち武者狩りにも見つからずに、三河に戻るには――。その打開策は伊賀出身の家臣、服部半蔵こと服部正成からもたらされる。伊賀の地侍や農民たちにならば、話ができそうだ。伊賀国の険しい山道を行くことが、結果的には最も安全だという。

これこそが「神君三大危機」の1つに数えられる「伊賀越え」である。「三河一向一揆」と「三方ヶ原の戦い」に並んで、家康が命を危うくした事態として語り継がれる。

こうして家康は、さっきまで命を絶とうとしていたとは思えないほど全力で、山中を駆け抜ける羽目になった。

【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)

(真山 知幸 : 著述家)