キーウの書店本棚から撤去されたロシア語書籍
書店の地下にロシア語書籍が山積み(キーウにて筆者撮影)
2022年2月のロシアによる対ウクライナ本格侵略以来、ウクライナ国内で高まる反ロシア感情は、文化面にも波及している。
「ロシア語の本をリサイクルして軍に寄付しよう」というキャンペーンが広がりを見せ、本屋からロシア語の本が撤去された。キーウ出身の世界的な作家ミハイル・ブルガーコフ(1891〜1940年)は、「反ウクライナだった」という理由から否定的評価が強くなり、記念館が攻撃されている。
「脱ロシア化」の動きは、戦時下ならではの現象ともいえるが、戦後も極端なナショナリズムが幅を利かせる恐れがある。
しゃれた書店が中心となったキャンペーン
キーウの中心部にある「シャイボ・クニーギ」。三方を取り囲んで2階まで本が並べられたしゃれた都会の書店だ。店内でコーヒーを飲みながら書棚の本を読むこともできる。2024年に開業80年を迎えるという。
2階まで本が並べられた書店「シャイボ・クニーギ」(筆者撮影)
2022年7月から2023年5月まで、この書店が中心となり4つの慈善団体が協力して、ロシア語の本の回収キャンペーンが行われた。
5月17日、店長のグリフ・マレッチさん(27歳)と、広報担当をしているアナスタシア・ハゾヴァさん(24歳)に、店内で話を聞いた。
インタビューに答えるマレッチさん(右)とハゾヴァさん(筆者撮影)
マレッチさんは、「この本屋はキーウ市が運営している『公営書店』。公営らしく誰でも朗読会などを開催できる場でもあり、前線の兵士に本を送るキャンペーンなど、いろいろな社会活動もしてきた」と話す。
ロシア語書籍の回収キャンペーンはそうした活動の一環として行われ、期間中70トンが集まり、リサイクルの収入で、車両2台、電灯、発電機、防弾チョッキをウクライナ軍に寄贈した。
階段に積み上げられたロシア語書籍(筆者撮影)
地下室やそこに至る階段には、ひもで縛られたり、段ボール箱に入ったりしたロシア語の本が山積みになっていた。
トルストイ、ゴーリキ、プーシキン、ブルガーコフといったロシアの作家の本に加え、デュマ、レマルクなどの翻訳ものも多い。『科学的共産主義の上級過程』といったソ連時代の本や、マルクスやレーニンの著作もあった。
キャンペーン終了後も本を持ち込み、送ってくる人が絶えないため、延長することにした。「この1週間の間に送られてきた本で、店内はもういっぱいになってしまった。新しいスペースを借りることにした」とマレッチさん。
「ロシア語の本はないのか」とは聞かれない
書棚のロシア語の本もすべて撤去した。
マレッチさんは、「ロシア語の本がないのか、と客から聞かれることはない。ウクライナの退役軍人がたくさんの本を書いていて人気を集めるなど、読者の関心はウクライナの作家や、ロシア以外の外国作家に移っている。今後もロシア文学の古典がウクライナ語に翻訳されることはないだろう。ロシア語の本がこの書店に戻ってくることはもはやない」という。
また、自然科学や技術関係は、かつてはほとんどがロシア語の文献だったが、ウクライナ語のものも増えている。最近は英語からウクライナ語に翻訳するものが多いので、その分野でもロシア語の需要は減っている。
とはいえ、文豪の作品は言うまでもなく、ロシア語書籍自体が文化と言えるし、それを集めて廃棄するのは、一つの文化破壊ではないだろうか。
私が、「日本でも親しまれているトルストイやドストエフスキーなどロシア文学の巨匠の作品が廃棄されるのは残念だ」と言うと、ハゾヴァさんは、「ロシアは今ウクライナに対してジェノサイドを行っている。ウクライナのほとんどの家庭に、死んだり、傷ついたりする人がいて、苦しんでいる。息子を失った母親がロシア語の本を読もうと思うだろうか」と強く反論した。
「キャンペーンはウクライナ文化を守るため。ロシアはウクライナの本、図書館、博物館を破壊している。ロシア文化に場所を与えることには意味がない。われわれは血を流して自分の文化を防衛している」とハゾヴァさん。
こうした強い立場を打ち出すのは、「公営書店」の性格もあるかもしれない。マレッチさんによると、個人書店は品ぞろえの20%まで外国書籍にしてよいと決まっているという。
ロシア語書籍ばかりの古本屋
他の書店がどうなっているのか、取材する時間はなかったが、近くにロシア語の本を主に扱っている古本屋があると聞き、行ってみた。
「ペチェールスカの古本屋」は、地下のショッピングモールに店を構えていた。書棚にぎっしり並んでいるのはほとんどがロシア語の古本だ。
ロシア語の古本でいっぱいの「ペチェールスカの古本屋」(筆者撮影)
店主のセルヒー・ヴィチューズィンさん(58歳)は、「ロシア語の本を売るな、といった圧力はまったくない。その手の人の知性は低いから、本など読まないからだ。ただ、侵略開始以来、ほとんど売れなくなってしまった。ロシア語の本を読む人間はほとんどウクライナから出国した」と話す。
数学、科学技術関係でウクライナ語の語彙は未だ貧弱で、よい本は少ないという。
高等数学の本を示すヴィチューズィンさん(筆者撮影)
ヴィチューズィンさんは「こんな高等数学の本はウクライナ語書籍にはない」と言いながら、一冊の本を筆者に示した。
ヴィチューズィンさんは、技術者としての教育を受けたが、ソ連崩壊で技術者になることをあきらめ、いろいろな職業を転々とした後、13年前に古本屋を開いた。
ロシア語書籍への姿勢は、受けた教育や世代により大きな違いがあるようだ。
ヴィチューズィンさんはロシア語書籍が廃棄される現状について、「理解はできるが、敵のことはよく知らねばならない。敵の顔を知っているが、言葉を知らないのは問題だ」と、批判的な様子がうかがえた。
「ソ連体制批判」から「反ウクライナ」へ評価が反転
キーウの観光名所でもあるアンドリー坂の中ほどのところにある「ブルガーコフ記念館」は、「文化闘争」のもう一つの舞台だ。
アンドリー坂にあるブルガーコフ記念館(筆者撮影)
ブルガーコフはキーウ生まれの20世紀を代表するロシア人作家。医者としてロシア革命後の内戦期のウクライナを生き、その体験をもとにした『白衛軍』や、ソ連体制への批判に満ちた幻想小説『巨匠とマルガリータ』などの作品で知られる。
多くの作品がソ連体制下では出版できず、『巨匠とマルガリータ』が完全な形で出版されたのは、冷戦末期の1989年だった。
記念館は、ブルガーコフが15歳から28歳まで住んだ建物を改装して、1991年に開館した。脱共産主義が課題だった当時のウクライナにとって、ブルガーコフはもっぱら「ソ連の反体制作家」としての位置づけだった。
そのブルガーコフがウクライナ侵略後、攻撃の対象となっている。
2022年8月、キーウ市内にあるブルガーコフが通っていた高校(現在はキーウ大学の建物)の壁に設置されていた記念板が、脱ロシア化を主張する市民団体の要求を受けて撤去された。
記念館に対しても、ロシアの本格的な侵略以来、ウクライナ作家組合などから、閉鎖を求める意見が提起されている。2023年5月には、16歳の少年が記念館に掲げられていたブルガーコフのレリーフに赤い塗料をかける事件も起きた。
ウクライナ独立は考えなかった作家
なぜ、こうした動きが相次いでいるのか。それは、ブルガーコフが反ウクライナ的と見なされるようになったからだ。
彼は反ボリシェビキではあったが、考え方の基本はロシア帝国の維持であり、ウクライナの独立は考えられないことだった。『白衛軍』では、独立を求めウクライナ共和国を率いたシモン・ペトリューラ(1879〜1926年)を否定的に描いている。
5月12日、記念館のガイドであるマリーナ・シュチェンコさん(37歳)の案内で、館内を見学した。
ブルガーコフの自筆原稿や手紙、写真、メモ、昆虫標本(ブルガーコフが弟と近郊のブチャにあったダーチャ=別荘で採集した)など、オリジナルの収蔵品は多いが、侵略開始後、その多くを倉庫に移した。ただ、現在の展示品だけでも、『白衛軍』に描かれた住居の雰囲気は十分感じることができる。
ブルガーコフ記念館を案内するシュチェンコさん。白い家具はレプリカ(筆者撮影)
ブルガーコフ文学への理解を深めるには、有益な展示だ。
インタビューに答えるグビアヌリ館長(筆者撮影)
リュドミラ・グビアヌリ館長(59歳)が、館が置かれている状況を説明した。
館長によれば、「ブルガーコフが、(ウクライナはロシア帝国の一部であるべきとする)ロシア帝国主義的考え方を持っていたことは確かだが、ウクライナ嫌い(Ukrainophobia)の人ではなかった」と言う。
「ブルガーコフのアイデンティティは複雑。ロシア語で執筆したからロシアの作家と見ることができるが、キーウで人間形成されなければ、世界的な作家にはならなかっただろう。彼の一部は、間違いなくキーウ・アイデンティティだった」
しかし侵略後、「ブルガーコフをめぐる議論は、YesかNoか、白か黒か、というふうに、われわれに明確な回答を求める状況になってしまった」。
作家が生きた時代背景を示す展示に
「今、多くの人々が、ブルガーコフのウクライナ語、文化、独立、革命、独立闘争に関する考え方に疑問を持っている。記念館も窓を開け、こうした意見に対応する必要がある」と館長は言う。
そのために、記念館では現在、展示の変更を検討している。
例えばペトリューラへの評価に関して言えば、「ブルガーコフはペトリューラを無教育の人間と見なしているが、われわれはそうでないことを歴史として示す」と館長は言う。
つまり、小説家ブルガーコフの個人的な足跡をたどるだけではなく、その時代の歴史的背景も示すことで、全体の展示を今のウクライナ主流の考え方に近づける試みだ。
「100年以上前のキーウは、まったく違う国、都市だった。当時のキーウはロシア化され、ロシア語が支配的な言語だった。ブルガーコフの時代をきちんと描くことで、彼の帝国主義的な考えとわれわれの脱植民地化の要請とを矛盾なく結び付けたい」
館長は「ブルガーコフは1990年代初めの再評価に続く、第2の見直しの時期に当たっている。ただ、今回のほうがもっと厄介だ」と言う。
展示見直しがウクライナ国民の理解を得て、世界的小説家の足跡を残すことができるか。記念館は難しいかじ取りを迫られるだろう。
ナショナリズムをどうコントロールするか
キーウでは街路の名称変更も進んでおり、ロシア人の名前のものはウクライナ人を中心とした名前に代わっている。その数は500カ所にもなる。
また、2022年以降、ウクライナ全土で進行しているのは、文化面でロシアを代表するロシア近代文学の父アレクサンドル・プーシキン(1799〜1837年)の銅像撤去だ。
拙著(『ウクライナ・ショック 覚醒したヨーロッパの行方』)に書いたが、ウクライナでは2015年前後に、ボリシェビキ革命の指導者ウラジーミル・レーニン(1870〜1924年)像の撤去が相次いだ。
今や「脱ロシア化」は政治から文化にまで広がり、新たな段階に入ったと言える。
ナショナリズムの高揚は、戦時下という特殊な条件ではやむをえない面もあるし、国民国家の歴史が浅いウクライナが、国家形成をしていくための一つのプロセスと見ることもできる。ただ、偏狭なナショナリズムは好ましいことではないし、それをいかにコントロールするかが「戦後ウクライナ」の一つの課題になるのだろう。
ブルガーコフ記念館の行方はその一つの試金石になるのではないか。
(三好 範英 : ジャーナリスト)