『学問のすゝめ』で知られる福沢諭吉ですが、実は勉強が好きではなかった?/出所:『吾輩は英語がペラペラである』

新渡戸稲造、夏目漱石、野口英世……彼らに共通する点がわかりますか。それは、成人する前に海外への留学を経験することなく、日本にいながらにして、ネイティブ顔負けの英語力を身につけたことです。

現代よりも英語学習法が確立されていない時期に、偉人たちはどのようにして英語をマスターしたのでしょうか? そして、現代の私たちが彼らの「英語学習法」から学べることとは?

『吾輩は英語がペラペラである ニッポンの偉人に学ぶ英語学習法』より抜粋、再構成してお届けします。

勉強嫌いを克服し学問の啓蒙書を出版!

福沢諭吉(1835〜1901年)
啓蒙思想家・教育家。幕末に『西洋事情』を発表し、明治維新に貢献。『学問のすゝめ』は教科書にも採用され幅広く読まれた。「自由」「平等」「権利」の尊さを説き、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)を創設した。

諭吉の有名な言葉に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」があります。『学問のすゝめ』の冒頭に記された言葉であり、「人間は生まれながらに平等であって、貴賤や上下関係によって差別されてはならない」ということを意味します。これは父親である福沢百助の影響を受けて生まれたものでした。

諭吉は1835年、大坂で5人きょうだいの末っ子として生まれました。父親の百助は足軽より格上の身分ではありましたが、下級武士に過ぎず、貧しい生活を強いられていました。

当時の日本は「家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽にならなければならない」という封建的な制度に縛られていました。その制度に異を唱えていた百助は、諭吉が生まれたときに「十か十一になれば寺にやって坊主にする」と言っていたのだとか。百助は諭吉が生まれて間もなく亡くなりましたが、生前諭吉の母親にそのことを話しており、諭吉は母親を介してその言葉を知ったそうです。

父親の期待に応えるには、当然学問に励まなければなりません。ところが、兄や姉は7、8歳のころから習い事を始めたのに、諭吉は根っからの勉強嫌いで、全く勉強する気が起きなかったのだとか。 14歳のころ、近所の子が本を読んで勉強しているのを知り、「このままではまずい」と思ったのでしょう。ようやく地元の漢学の塾に通い、当時教養として身につけるべきとされていた中国語を勉強する気になったそうです。

語学はなるべく早い時期に始めるのがよいといわれています。ではなぜ、出遅れとも言える諭吉が中国語を身につけることができたのでしょうか。

その答えは日本の歴史にあります。古代に伝来した儒学と、諭吉をはじめ江戸の知識人のあいだで好まれた儒学は性質が異なります。江戸幕府が推奨した儒学は日本化されたものであり、江戸時代に出回った儒学書に書かれている言葉も、「唐話」と呼ばれる、唐通事(中国語の通訳者)が話す言葉をベースに、日本人向けにつくられた中国語でした。当時は基本的に日本語訛りの中国語が使われていたのです。

現代の語学ではとにかくネイティブ並みに話したり書いたりすることが求められます。その結果、語学のハードルが高くなり、上達が妨げられてしまいます。

当時の中国語は日本人向けに最適化されていたからこそ、諭吉をはじめとする江戸の知識人たちは中国語を嗜み、武器とすることができたのです。

お気に入りの漢書は何度もリピート

『学問のすゝめ』や『西洋事情』などの本を著した諭吉も、昔から本を好んで読んでいたわけではありませんでした。むしろ本が大嫌いで、これは14歳になるまで学問に励まなかった理由とも関係しています。

諭吉が通っていた漢学者の白石照山 の塾では、『詩経』や『書経』を中心に、『孟子』、『論語』、『老子』、『荘子』、『蒙求 』、『戦国策』などの古代中国の書物を読むためのレッスンが行われていました。古代中国史に興味を持った諭吉は、自ら進んで『前漢書』や『後漢書』、『晋書』などの歴史書を読み漁ったといわれています。

中でも諭吉にとってのイチオシは『春秋左氏伝』。左丘明 によって書かれた、春秋時代の政治や外交などにまつわる説話集です。その漢書は全部で15巻ありましたが、たいていの生徒が3、4巻ほどでギブアップしたのに対し、諭吉はすべて一通り読んだそうです。それどころか、11回読み返しては、面白いと思った部分を暗記したのだとか。 こうして、諭吉は夢中になれるものに出会えたことがきっかけで、本嫌いを克服し、中国語のスキルを見る見るうちに上達させていきました。

これは英語学習においても同じです。いろいろな教材を試すことも大事ですが、諭吉のように、一つの教材を徹底的にやり込むことで、本に出てくる語彙や表現をモノにすることができるのです。

師匠に負けてたまるか!

諭吉の脳裏には常に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉がありました。勉学に励めば、人間の身分の違いを埋められるということを信じていた諭吉は、漢学塾でも先生に負けまいと必死に勉強していました。

当時、藩校などでは漢文を学ぶのに「素読」という方法がとられていました。「素読」とは、意味の解釈を加えず、ただ声に出して暗唱する学習法。これを逆手にとって、「意味を理解すればどんなに偉い先生にも勝てるだろう」と考えた諭吉が、独自に編み出したのが「意味を理解しながら読む」という方法でした。

結果的に諭吉のその策略は思いどおりに運んだようで、午前に素読を教わった先生と、午後に漢文の読みで対決をしては、そのたびに先生を負かしていたのだとか。

語学においては、自然に湧き出る心理的な欲求に基づき行動することが重要で、それによってモチベーションが持続し、成功率が高くなるといわれています。諭吉の場合、負けず嫌いな性格が語学を続ける動機となり、結果として師匠を上回るほどの語学力の獲得につながったのです。

諭吉はのちにオランダ語や英語を学ぶ際にも全く同じ学習法を適用しました。もちろん、原書でつまずくこともありました。そんなとき、とりあえず30分間は辛抱強く無言で考えるようにすると、意味が自ずと見えてきたのだとか。こうして、諭吉はオランダ語と英語を上達させていきました。

幼くして父親を亡くし、母親によって女手一つで育てられた諭吉は、貧乏な生活を強いられていました。そんなある日、諭吉は兄から以下の言葉を告げられます。

原書というはオランダ出版の横文字の書だ。いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文を読まなければならぬ。

引用:福沢諭吉・著/富田正文・校訂『新訂 福翁自伝』(岩波文庫)岩波書店 1937)

漢書を学んでいるときは、クラスメートの中では出来がよかったこともあり、オランダ語への興味が自ずと芽生えた諭吉。長崎へ行けば、原書が手に入ります。オランダ語を本格的に学ぶために、長崎に行くことを決心するも、諭吉にはそんなお金はありません。そんなとき、手を差しのべてくれたのが、漢学塾でお世話になった前述の白石照山でした。漢学者でもあった父が遺した蔵書を照山に15両で買い取ってもらった諭吉は、そのお金を手にし、長崎へと出向きました。

五感を刺激しながら学習する

ただし、手持ちのお金には限りがあります。諭吉は原書がたやすく手に入る長崎のオランダ砲術家の自宅に居候をしたり、知り合いから本を借りたりしながらオランダ語を学んだようです。例えば200ページ余りあるオランダ新版の築城書を知り合いから借りてきたときには、まず数日間ほぼ徹夜で必死に書き写し、 それからオランダ語を知っている蘭学医の先生とできあがったものの読み合わせをしながら、オランダ語を上達させていきました。

語学では、五感を刺激しながら学習することで、知識が記憶により定着しやすくなるといわれています。諭吉が実践したオランダ語学習法は、文字を見て、紙に書き、そしてそれを声に出して読むという方法でした。それにより、視覚や触覚、聴覚が刺激されるので、知識を記憶に定着させるにはうってつけの方法と言えます。実はこれ、歴史的にも効果が証明された方法だったのです。

諭吉にとってオランダ語は異質な言語でしたが、古代の人たちにとってのそれは大陸から入ってくる漢字。そして、古代の人たちが漢字を覚えるために実践したのが、木簡や土器に歌を書き、それを読むという方法でした。

そもそも日本の漢字は発音と意味の両方の情報を持っており、こうしたタイプのものは全体の8割を占めています。ここで、「固」「故」「姑」「胡」という漢字を例に考えてみましょう。いずれも「古(コ)」という発音に関する情報に加え、「乾いて固い」という意味に関する情報を持っています。古代の人たちは、漢字を木簡や土器に記しながら、発音と意味を同時に習得していったとされています。

ところで、英語はどうでしょうか。例えば同じ「li」でも、「little」ではその発音は「リ」であるのに対し、「light」は「ライ」と発音されます。また、これらは意味の異なる単語です。たとえ英語の綴りを理解できても、発音や意味の理解には及びません。漢字とは違って、英語の綴りを書いて、同時に発音や意味をマスターするのは難しいのかもしれません。

長崎や大坂でオランダ語を学んだ諭吉は、開港したばかりの横浜へ見物に訪れます。ところが、諭吉のオランダ語は全く使い物になりませんでした。というのも、横浜に居留する外国人の多くは英語を話していたのです。「落胆している場合ではない。これからは英語の時代だ!」と奮起した諭吉は、早速英語を学び始めました。

慶應義塾を創設した諭吉も、私たちと同じ人間です。最初からパーフェクトに英語を理解できたわけではありません。特に発音が苦手だったので、外国人に英語を習った子どもが長崎から来たと聞くと、その子どもをつかまえて発音を学んだそうです。

ただ、諭吉の質問には少し意地悪なところもありました。人が読み間違えそうな場所をわざとピックアップし、わからないふりをしてその読み方を尋ねては、学者と称する先生が読み間違える様子を笑っていた、という逸話もあります。

英語上達の秘訣は、とにかく苦手な箇所をつくらないことです。諭吉がとった方法をそっくりそのまま真似する必要はありませんが、わからないことがあったら、積極的に人に聞いて疑問をなくしておくことは見習うべきかもしれませんね。

原書で授業をしたら日本語が読めなくなる生徒も

オランダ語と英語は語彙や文法の面で似ており、系統的にはどちらも西ゲルマン語群の低地ゲルマン語派に属します。横浜で購入した蘭英の会話書や辞書とにらめっこする中でそのことを知った諭吉は、英語で書かれた部分をオランダ語に翻訳しながら英語を身につけていきました。


そもそも1858年、諭吉が江戸築地鉄砲洲の中津藩中屋敷内(現在の東京都中央区明石町)に設立した慶應義塾は、蘭学塾として開校したのが始まりでした。それから2年後、諭吉は勝海舟やジョン万次郎らとともに咸臨丸に乗り込み渡米。帰国後は英語と中国語の対訳の単語集『増訂華英通語』の刊行をきっかけに、慶應義塾を英学塾へと切り替えました。

諭吉が展開した英学の授業は「原書を読み、その意味を理解する」という、まさに自身が経験した方法に則ったもの。その方法で生徒の英語のスキルは確実に上達したようですが、なにぶん英語ばかり読んでいたことが仇となり、日本語の手紙が読めなくなる生徒もいたのだとか。

ノンネイティブが外国語を学ぶときには、あらかじめ土台となる母語の文法をしっかり身につけるべきだといわれています。諭吉の場合、日本語の文法を軽視したことが英学の授業の失敗につながってしまったのかもしれません。

(大澤 法子 : ライター・翻訳者)