享年70歳の彼が高校の同級生3人に託した遺言
10年も音信不通だった友の死――(写真:CORA/PIXTA)
定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?
熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」の試し読み第2回(全8回)をお届けします。
「みんなは巣立に会ってたの?」
「どうした?」
顔を上げた板垣は、先ほどまでの必死さをごまかすように、へらへらと口を歪めた。
「実は巣立が生きていて、どっかに隠れてるんじゃねえかって」
「相変わらず、団長の辞書に『あきらめる』の文字はないんだね」
宮瀬がおどけた声で返す。
「けど見当たらねえわ。本当に、巣立は天国へ巣立っちまったのかもな」
「笑えない冗談だ」と私は苦笑する。
いつもなら、板垣が突っかかってくるところだが、返事はなかった。
沈黙が私たちを繋ぐ。
間を埋めようと、息を吸う。
浮かんだ軽口を発する前に、板垣の頬を水滴が流れ落ちた。
誰よりも大きな声で選手を鼓舞してきた団長は、音も立てずに泣いた。
人は死ぬ。
この歳なら、当たり前のこととして受け入れなければならない。
けれど板垣の涙を見た途端、目の奥が焼けるように熱くなる。
もう二度と、巣立に会えない。
滲む遺影に、祈るように手を合わせる。
巣立は死ぬ直前も、ニヤニヤと笑っていられただろうか。
私がしてやれたことはなかっただろうか。
10年前に再会した時は、あれが最後になるなんて思わなかった。
巣立からは、毎年のように「いつかみんなで集まろう」と書かれた年賀状が届いていたのに……。別に会う用事などない、と返事をしなかった。でも本当は、会うのが怖かっただけだ。自分のプライドを守るために、彼の気持ちを踏みにじり、無視しつづけた。
「みんなは巣立に会ってたの?」
宮瀬の声に、顔を上げた。
「いや……」
私は言葉を濁す。10年も音信不通だったとは言えなかった。
「僕も……」
宮瀬が弱々しく同意する。
「俺も……」
板垣の掠れた声が重なる。
美容室が忙しい宮瀬はともかく、団長も会っていなかったとは。
「次にみんなで集まれるのは、いつになるだろうね」
宮瀬が寂しそうに眉尻を下げ、唇を噛んだ。
「この中の誰かが死んだ時じゃないか」と私は答える。
本音だった。誰かが死ぬくらいでしか、もう私たちが集まる理由が見当たらない。
「よし、帰るか」
板垣を先頭に玄関へ歩き出そうとした、その時、「応援団の皆さん」と私たちを呼び止める声がした。喪服の女性が駆け寄ってくる。板垣活火山の鎮火の助け舟を送ってくれた娘だ。
「あの、わたし、巣立進の孫の希です」
記憶が繋がる。ぱっちりとした目と薄く上品な唇は、巣立の奥さんである陽子先輩に似ているのだ。
彼女は「おじいちゃんの遺言です」と言って、封筒を差し出した。
皆で戸惑ったように顔を見合わせる。
板垣が受け取り、便箋を取り出した。
慎重に開くと、そこには、たった一行、こう書かれていた。
応援団を再結成してほしい 一生のお願いだ
再結成? おそるおそる隣を見ると、宮瀬に笑顔はなく、常に後先を考えず即答する板垣でさえ、遺書に視線を落としたまま固まっている。少し開いた窓から、木々を揺らす風の音がざわざわと聞こえた。
「今更応援団なんて、無理だろうよ」
私の言葉に、板垣が顔を上げた。険しい顔で、深い息を吐く。老体に応援団が酷なことぐらい、熱しやすい板垣でも理解できたのだろう。
「どうしても、ダメでしょうか」
巣立の孫娘は目を潤ませ、「遺書は一通だけ。皆さんにしか頼れなかったんだと思うんです」と訴える。
すると宮瀬が遺書をつまみ取り、丁寧に折り畳んだ後、なかったことにするかのように、板垣のアロハシャツの胸ポケットに差し入れた。困ったような笑みを浮かべ、「申し訳ないけど──」と応える。
宮瀬は正しい。どれだけお願いされても、無理なものは無理だ。
「来月からでもいい? 今、お店の引き継ぎで忙しくてさ」
「そうだよな、来月だったら大丈夫……はああああ?」
世界ビックリした人間コンテストがあれば、私は間違いなく優勝だろう。
「宮瀬、時期の問題じゃないだろうよ。70歳の応援団なんてありえない」
「引間の臆病風も、相変わらずだねえ」
「臆病風じゃない。事実を言ってるんだ」
「久しぶりなんだよ。何かを頼まれたの」
宮瀬の声のトーンが真剣みを帯びる。
「この歳になるとさ、店のスタッフは誰も、僕に頼み事なんかしてこないんだよね。こっちはまだやれるつもりなのに。ねえ、老人は支えられるだけで、誰かを支えちゃいけないのかな?」
その言葉に、市役所に勤めていた頃、廊下に貼り出してあったポスターが頭に浮かぶ。
──高齢者に優しい社会を目指します。
一見、善意に満ちた標語だ。けれど、「社会から優しくされないと高齢者は生きていけない」というメッセージにも思えた。
「ずるいだろうよ」
「いつからだろうな。自分が社会のお荷物だと思うようになったのは」
普通に生活をしているだけでも、誰かに迷惑をかけているのでは、と思う。
「まだまだ荷物も持てるのにね」
宮瀬が床に置いていた鞄を目線の高さまで持ち上げた。
「必要とされるのって嬉しいじゃない。それが仲間の最期の頼みなら、なおさらだよ」
巣立が誰を応援してほしいのかは、わからない。しかし、一生のお願いと言って託すほどの心残りがあった……。
遺影を見上げる。きっと巣立はニヤニヤしながら死ねなかったのだ。後悔に苦しみ、悩み、絶望し、追い詰められた。なのに、疎遠だった旧友しか頼れる人がいない。彼の孤独を思い、胸が痛む。
「力になってやりたいとは思う」私は正直に答えた。「でもそれはあくまで、自分のできる範囲内での話だ。応援団の再結成なんて、完全に大気圏外だろ」
「じゃあ今度、やるかどうかの話し合いをするのはどうですか。場所は巣立湯を使ってくださいよ。わたしがおじいちゃんの跡を継いで、5月から営業再開するんで」
孫娘の妥協案に板垣は俯き、「家で、もう一度遺書を読んでみるわ」と支離滅裂なフォローを口にする。私も「まあ、話し合うだけなら」と一応の返事をした。暗号が隠されている訳でもあるまいし。読み返したところで、応援団が無理だという事実は変わらない。
「なんだかワクワクしてきたね」
宮瀬がとびきりの笑顔を見せた。
私は苦笑で応え、遺影に向かい、さっきから気になっていたことを意見する。
「一生を終えてる奴が、一生のお願いをするのはずるいだろうよ」
5月。
自宅のある西国分寺から中央線の各駅停車に乗り、三鷹に向かった。南口を出て、ロータリーを抜け、さくら通りを進む。一本入った路地に、巣立湯はある。銭湯が開く16時の30分前。まだ早かったか。役所を退職してずいぶん経つのに、待ち合わせ時間には余裕を持っていないと不安になる。
男湯の暖簾の隙間から中を覗くと、緑色のジャージを着た金髪の女性が、脱衣場にモップをかけていた。こちらに気づき、「えーと、引間さんでしたっけ?」と私の名を呼んだ。聞き覚えのある声だ。
「あっ、巣立のお孫さんですか」
「希でいいですよ」
彼女は気さくな笑みを浮かべ、首に巻いたタオルで額の汗を拭った。
「ずいぶん雰囲気が違いますね」
「お通夜では黒く染め直してただけ。こっちが本当のわたしです」
本当のわたし。言葉とは対照的に、蛍光灯に照らされた人工的な金色は、彼女から浮いて見えた。
「ごきげんよう」
暖簾がひらりとめくられた。ハットの下からピンクの髪をなびかせ、宮瀬が入ってくる。
「わお。希ちゃん、めっちゃゴールド」
口ぶりは軽いが、注がれる視線は仕事人のそれだ。都内で数店舗の美容室を経営しているだけはある。「今度、僕のサロンに来なよ。もっとパルフェットな髪にしてあげる」と宣伝も抜かりない。
「ういっす。団長、参上」
杖をつき、腰が折れ曲がった板垣が、暖簾を揺らすことなく現れた。「まだ他の客はいねえな」と一直線で脱衣場のロッカーに向かい、服を脱ぎはじめる。
「団長」私は丸まった背中に声をかけた。「風呂じゃなくて、遺言の話だろ」
「はあ? 銭湯に来て風呂に入らないのは、ボリビアに行って、ゲバラの墓参りをしないのと同じだからな」
「せめて、三鷹に来たのにジブリ美術館を観ないのと同じだ、にしてくれ」
「引間、抵抗するだけ無駄だよ」
宮瀬もいそいそと服を脱ぎ出す。
裸になった2人を浴場に見送り、私もロッカーの扉を開けた。
「時が止まってるみたい」
浴室に入ると、巣立湯名物、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』が広がっていた。巣立が親父さんから継いだ時に、三保の松原から塗り替えた壁絵だ。理由を尋ねると、「ユダもほっこりして裏切るのをやめるくらい、いい湯だ」と力説していたのを思い出す。
シャワーで汗を流し、湯船に入る。
「巣立湯だけ時が止まってるみたい」
肩まで湯につかった宮瀬が、うっとりと漏らす。
「そうだな」と言いかけ、正面の絵の一部に違和感を覚えた。老眼鏡を外したせいかと思ったが、違った。
「ここだけ、やけにリアルだね」
宮瀬も気づいたらしい。『最後の晩餐』の画面中央からやや左、裏切り者のユダを描いた部分が、本物のような迫力をたたえている。近づくと、緻密な筆遣いに見入ってしまった。
「希ちゃん、ユダだけ生きてるみたいなんだけど」
宮瀬の声に、希さんがドアの隙間から気まずそうな顔を覗かせた。
「そこだけペンキが剥げちゃって。おじいちゃんに頼まれて、わたしが修復したんですよ」
「えっ、希ちゃんが描いたの?」
「その頃は美大に通ってたんで」
「こりゃプロになれるぞ」
板垣も彼女の技術に唸り声を上げる。
「いや、中退しちゃいましたし、もう絵はやめましたから……」
「もったいない。本当に上手ですよ」
お世辞ではなかった。しかし私の言葉に、彼女の瞳から光が消えた。刹那、記憶の欠片が胸を突く。失敗に終わったプロジェクト。土下座した先に広がった絨毯の、のっぺりとした灰色がフラッシュバックする。視界が揺れ、たまらず目を閉じた。
「大丈夫?」
目を開けると、宮瀬がこちらを覗き込んでいた。
「ああ、大丈夫だ」
私は湯船を出て、足早に脱衣場へ向かった。
洋服に着替え、老眼鏡をかける。視界がクリアになり、いくらか落ち着きを取り戻した。
「引間、のぼせた?」
宮瀬が冷たい濡れタオルを差し出す。相変わらず気遣いがさりげない。モテ男の本領を、老若男女問わずに発揮するのが、彼が誰からも愛される理由だ。
番台の横、脱衣場の角に設けられた休憩スペースへ向かう。
「団室も変わらないねえ」
宮瀬が両手を広げる。通夜の時は片づけられていた丸テーブルと丸椅子が置かれ、壁際には冷蔵ケース、奥の窓側の棚には雑誌や新聞が並んでいた。我が応援団には部室がなかったので、当時はこの休憩スペースを団室と称し、よく四人でたまっていた。
「久しぶりに一杯やろうよ」
宮瀬が冷蔵ケースからコーヒー牛乳とミックスジュースを取り出し、丸椅子に腰かけた。私も向かいに座る。ジュースの蓋を開け、一口、口に含んだ。懐かしい甘さが喉に染み渡り、心まで潤されていく。移ろいやすいこの世界で、変わらずにいることは、それだけで尊い。
「かあー、いい湯だった」
角ばった顔の端々から湯気を放ち、板垣がやってきた。これまた巣立湯名物の、唐辛子をしこたま浮かべ、湯温が50度もある五右衛門風呂、通称「拷問風呂」に入っていたのだろう。
冷蔵ケースには目もくれず、テーブルに杖をかけ、奥の丸椅子に座る。リュックから水筒を取り出しコップに注ぐと、吹き出すように湯気が昇った。
不思議そうに眺める希さんに、「板垣の好物はなんでしょう」と宮瀬が突然クイズを始めた。
「応援団の名前だけどよ」
「ではご本人、お答えをどうぞ」
熱燗のようにちびちびと白湯を飲んでいた板垣が、声高に宣言する。
「50度以上のものだ」
希さんはぽかんとしていたが、私が「人類で初めて、好物を『温度』で答えた漢。それが板垣勇美です」と解説すると、むせるように笑った。
「おうよ。俺が人類を背負って、先頭を走ってやる」
板垣は胸を張り、一気に白湯を流し込んだ。通夜で感じた残念な晩年の姿を払拭する、頼れる団長が甦る。
「んで、応援団の名前だけどよ」
「ちょっと待った」私は慌てて口を挟む。「応援団、やるのか?」
「もちろん」
まさか遺書を読み返した結果、結論が変わるなんて。
「遺書に誰を応援してほしいか書いてあったのか?」
「いや、あれ以外は何も」
板垣は首を振る。
「でも、あいつのために、俺は応援団をやる」
力強く、そう宣言した。
「さすが団長。仲間思いだねえ」
宮瀬が板垣の肩を叩く。
「そうでもねえよ」
「板垣が謙遜するなんて珍しい。具合でも悪いのか?」
「そうかもな。けどよ、たとえ背骨がなくたって、俺はやるぞ」
「背骨はあるだろうよ。曲がってるだけで。国語教師だったんだから、言葉は正しくな」
私の指摘に、板垣は下唇を突き出し、不貞腐れたように言った。
「引間は、あの頃に戻りたくねえのか」
(7月16日配信の次回に続く)
(遠未 真幸 : 小説家)