清洲会議で有名な愛知県清洲城(写真:dual180 / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は信長の死が各地域に与えた影響と、家康が領土を拡大できた背景を解説する。

天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により、織田信長は家臣・明智光秀に討たれた。その一報を和泉国(現・大阪府)堺で聞いた家康は逡巡しつつも、堺を抜け出し、南近江路、伊賀・伊勢路を通り、三河国(現・愛知県東部)岡崎城に帰還(6月5日)するという一大避難「伊賀越え」を敢行する。

三河国に戻った家康は、恩義ある信長を襲撃した明智光秀を討つため、尾張国(現・愛知県西部)に向けて出兵した(6月14日)。

しかし、その前日(13日)には、明智光秀はもうこの世にいなかった。信長の死をすばやく聞きつけた織田家臣・羽柴秀吉が、中国地方の戦場から急遽引き返し、山崎の戦いで明智光秀軍を撃破。明智光秀は落ち延びる途中で落武者狩りに遭い、落命したのだ。


明智光秀の像(写真: skipinof /PIXTA)

同月19日、羽柴秀吉から「上方は平定したので、帰陣してほしい」との通知があったため、家康は浜松に帰ることになる。

関東甲信に激動をもたらす

信長の死は関東甲信にも激動をもたらした。家康は当然、そのことを見越していたので、6月6日には早くも、武田旧臣で徳川方についた岡部正綱を甲斐国(現・山梨県)河内領に派遣している。

同領は、元々は穴山信君の領土であったが、穴山信君は本能寺の変直後の避難の際に、家康と同行しなかったため、落武者狩りにより死亡した。穴山信君の後継者は11歳と年少の穴山勝千代であり統治は困難であった。家康はそうした状況をするどく読み取り、穴山氏を軍事的従属下に置いたのだ。

一方で甲斐国では、一揆が蜂起していたこともあり、家康は本多忠政を派遣した。穴山氏の領土を除いた甲斐国を統治していたのは、織田家臣だった河尻秀隆だ。

河尻秀隆は、本多忠政の派遣を当初は援軍と思い、ありがたがっていたようだ。ところが、河尻秀隆は「本多忠政が一揆に乗じて、自分を討とうとしているのではないか」と疑い、本多忠政を招き寄せ、ご馳走を振る舞って、寝ているところを長刀で突き殺してしまう(『三河物語』)。

これに怒ったのが、本多忠政の家臣である。彼らは一揆を形成し、河尻秀隆を討ち取ってしまった(6月18日)。

上野国(現・群馬県)でも変動があった。同国は小田原の後北条氏がかつて支配していたことがある。その後織田家臣・滝川一益のもとにあったが、後北条氏が奪回に乗り出してきた。

滝川一益は、後北条氏の軍勢を迎え撃つも敗北し、本領の伊勢(現・三重県)に敗走することになる。

信濃国(現・長野県)でも、森長可ら織田勢は、旧領美濃に撤退。越後の上杉氏が川中島四郡(長野市)に侵攻し、同地を制圧することとなった。

かつて、織田信長は、武田家を滅亡に追い込んだ後、甲斐国(穴山氏領土以外)は河尻秀隆に、上野国は滝川一益に、信濃国の四郡は森長可に与える知行割を行ったが、信長の死により、瞬く間にそれは崩壊してしまった。

『三河物語』などを見ていると、家康は大須賀五郎左衛門尉、岡部正綱ら武田旧臣の者を使い、甲斐の争乱を抑えにかかっている。信濃国では、同国佐久郡の国衆・依田信蕃(武田旧臣)に、信州の豪族の懐柔を担当させていた。

家臣を派遣して、甲斐国・信濃国の経略を進めていた家康だが、自身も浜松から出陣(7月3日)し、同月9日には甲府に到着する。

清洲会議が開催、三法師が後継者に

さて、この約1週間ほど前には、織田氏の諸将が集まり、清洲会議(愛知県清須市)が開催され、織田信忠(信長の嫡男)の遺児・三法師が織田家の後継者に決定した。

三法師の叔父の織田信雄と織田信孝が後見人となり、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興ら4人の重臣が補佐する体制ができあがったのである。家康もこの「新・織田政権」の承認を得て、甲信地方の平定を本格的に進めていくことになる。

織田氏の統治が崩壊した甲斐・信濃国などを巡って、徳川氏と北条氏が干戈を交えることになった。その争乱は「天正壬午の乱」と呼ばれる。天正10年(1582)が壬午(みずのえうま)の年に当たるからである。

天正10年6月中旬、北条氏の当主・氏直は約2万の軍勢で、滝川一益の軍を神流川の戦いで破ると、信濃国に侵攻してきた。信濃国衆の真田昌幸や諏訪頼忠らは、北条氏に降ってしまう。

『三河物語』によると、徳川重臣・酒井忠次が、信濃国衆の懐柔のため、信濃にやってきたはよいが「信濃を私に下さるなら、諏訪頼忠も手懐けよう」と公言したため、諏訪氏は機嫌を損ね、北条氏に加勢したという。

北条氏は北信濃を制圧しようとしたが、内応を約束していた上杉方の武将(海津城代の春日信達)が処刑されたこともあり、北信濃平定を断念し、甲斐国に向けて、進軍することになる。

北条氏は、8月7日、若神子(山梨県北杜市)に着陣。信濃にいた酒井忠次・大久保忠世ら徳川家臣も甲斐に向かい、徳川本隊と合流する。

家康は、甲斐の守備を鳥居元忠らに任せて、新府(山梨県韮崎市)に移ることになる(8月10日)。2万の北条軍に対し、徳川軍は2000と劣勢であった。

北条方の武将も徳川に帰順

しかし、徳川の重臣・鳥居元忠は、黒駒(山梨県笛吹市)において、北条氏忠の軍勢を破り、300人を討ち取っている。討ち取られた北条氏の兵士らの首は、晒し首場に並べられたという。

その首は数百はあったというが、それを見た北条氏の兵士たちは「これは私の親だ」「これは私の兄」「これは兄」「甥」「従兄弟」「我が叔父」「兄弟」だと口々に泣き叫び、戦意喪失したということだ(『三河物語』)。北条氏についていた武将も、徳川に帰順するようになる。

8月から9月にかけて、木曽義昌・真田昌幸が徳川方に降る。徳川方の勢いが増し、北条方の砦が攻略されたこともあって、北条氏直はついに家康に和睦を申し入れる。信長子息の織田信雄・信孝兄弟の停戦せよとの働きかけも家康にあったという。

10月29日、和睦は成立する。北条氏が押さえていた信濃佐久郡と甲斐都留郡は徳川に割譲されることになった。上野国は北条氏のものとすることが決まり、家康の娘・督姫を北条氏直の正室にすることとなった。敵対関係から一転、両者(徳川家と北条家)の間に、婚姻を基にした同盟が結ばれることになったのだ。

天正壬午の乱は終結し、家康は元々統治していた三河・遠江・駿河に加えて、甲斐・南信濃の5カ国を領有する大大名となった。乱後もしばらく、家康は甲府にいて、甲斐・信濃の経略に努める。

本能寺の変後の混乱を家康はうまく乗り切り、大きく飛躍したと言えよう。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)