70歳「元応援団」3人が友の通夜で追憶した青春
主人公は全員70歳! 友人の通夜に集まった面々。人生は本当に悲劇でしかないのか――?(写真:KOHEI41/PIXTA)
定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?
熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」を試し読みでお届けします(全8回)。
死ぬのが楽しみでたまらない
思いがけず、死の淵に立っている。
そして、わかったことがある。
ああ、やっぱり人生は悲劇でしかない。
努力は報われないし、
気持ちはすれ違うし、
後悔は傷をえぐり返すし、
いつまで経っても、楽にはならない。
でもそんな、理不尽で、救いのない世界だからこそ、
ふいに輝く未来が、息を呑むほど美しく、
心を揺り動かす。
きっとそうなのだ。
希望から絶望が生まれるように、
絶望からまた、希望は生まれる。
だからオレは、
いま、
こんな悲劇のど真ん中で……、
死ぬのが楽しみでたまらない。
高校卒業以来、52年ぶりに訪れた巣立湯は、何も変わっていなかった。
瓦屋根から伸びる煤けた煙突も、中央に「ゆ」の字が浮かぶ色褪せた紺暖簾も、奥にある巣立の家に続く雑草だらけの裏道も。
ほっと漏れかけた息が、止まる。
巣立進通夜式
入り口の看板には、大切な仲間の名が記されていた。
「おーい、引間広志副団長」
呼ぶ声に振り返ると、高校時代に応援団で共に汗を流した宮瀬実の顔があった。美容師の彼は忙しく、同窓会で挨拶したきり、会うのは十数年ぶりだ。しかし、再会の喜びよりも先に、困惑が口をつく。
「その髪の毛……」
ハットの下から肩口まで伸びる髪が、見事なピンク色に染め上げられていた。
「美しいカラーでしょ。イメージは──」
かろうじて花が残る桜の木を見上げ、宮瀬は優雅に言った。
「チェリーフロッサム」
老眼鏡越しに、彼の顔をまじまじと見る。フランス人の血が混じった甘いマスクに、無垢な笑みが浮かんでいた。独創的な言い間違い癖は健在ということか。私は高校時代に戻ったつもりで言い返す。
「チェリーブロッサム、だな。フロッサムだと、宮瀬家の風呂場が寒いのかと心配になるだろ。高齢者ほどヒートショック現象には気をつけないと」
私の指摘に、「あ、ブロッサムね」と宮瀬は頬を赤くする。
「相変わらず、宮瀬は言い間違いが大胆だな」
「相変わらず、引間はツッコミが几帳面だね」
同時に吹き出す。宮瀬の顔に、くしゃくしゃっとした皺が寄った。人懐っこい笑顔も、健在のようだ。
「天国の巣立に見せたくてね」宮瀬がハットの先をつまみ、深く被り直す。「フランスでは『私を忘れないで』っていうのが、桜の花言葉なんだよ」
ピンクの後ろ髪が、風になびく。
「外見は、内面の一番外側だからさ」
「その道50年の美容師の言葉は、説得力があるな」
「ああ、それなんだけど」宮瀬が言いかけた時、巣立湯の中から「どういう意味だよ」という怒声が聞こえた。二人で顔を見合わせる。このしゃがれ声は、団長の板垣勇美だ。
急いで入り口を抜け、男湯の暖簾をくぐる。脱衣場のロッカーの前に、杖をつき、腰が90度近く曲がった板垣がいた。「ソース顔を煮詰めて若干焦がした」と評される顔面を紅潮させ、二人組の若い男性に詰め寄っている。しかも上着は真っ赤なアロハシャツ。板垣レッドに宮瀬ピンク、我が応援団はいつからヒーロー戦隊になったのだ。小言がこぼれそうになるのをこらえ、「板垣、落ち着け」と声をかけた。
「おお、ちょうどいいところに来た。おまえらも怒れよ」
「よし、任せとけ。プンスカプン! ってなるわけないだろ」
「くわー、引間広志副団長は相変わらず冷静だこと。いや、冷静を通り越して、冷え性だぜ」
「それは私の体質だろ。それとも、冷え性が辛くて『内面まで冷えがち』ってことか」
「どうしてこのおじいさんに絡まれちゃったのかな?」
宮瀬が柔らかな声で訊いた。
20代半ばくらいの若者だった。一人は背が低く、モヒカン頭で、トゲトゲが無数についた黒革のライダースジャケットを着ている。もう一人は縦にも横にも大きく、ライオンのタテガミのような、うねったパーマ頭だ。雰囲気からして、巣立の友人には見えなかった。
「えっと、70歳で死ぬのはかわいそうって言ったら、急に……」
モヒカンの彼が、横目で板垣を窺う。
「かわいそうだと?」板垣の太い眉毛がつり上がる。「おまえらはあれか、まわりより長く生きれば幸せで、そうじゃなければかわいそうと言うんだな」
タテガミの彼が、眉をハの字に曲げた。しかし高校時代に「歩く活火山」と異名を取っていた板垣は、真っ赤な顔で語気を強めていく。
「平均寿命、平均年収、平均台、なんでも平均に躍らされやがって。他人との比較でしか幸せを感じられないおまえらの方が、よっぽどかわいそうだっつうの」
「かわいそうなのは、とばっちりをくらった平均台だ」
口を挟んでみるものの、板垣は止まらない。地団駄を踏むように杖で床を叩き、「人生は、どのくらい長く生きたか、じゃねえぞ。どのくらい必死に生きたか、だ。短くても精一杯やった奴の人生を、『かわいそう』なんて一言で片づけられてたまるかよ」と喚いている。
「かわいそうって言われたくらいで、ここまで怒ることはないのにね」
宮瀬が困ったように笑う。
「こんな時に巣立がいればな」
私はちょび髭のムードメーカーを思った。
「あのー、お取り込み中のところ失礼します」
「喧嘩じゃなくて、お別れをしに来たんだから」
顔を向けると、喪服を着た若い女性がほほえんでいた。くりっとした大きな瞳に、小動物を思わせる小さな顔。鼻先が丸く、可愛らしいが整いすぎていない顔立ちに、なぜか親近感が湧く。
「受付がまだのようでしたら、あちらでどうぞ」と彼女が番台を指す。素晴らしい助け舟だ。私は二人組に目配せする。彼らはほっとした表情で、足早に去っていった。
「今日は喧嘩じゃなくて、お別れをしに来たんだからね。一言では片づけられない気持ちを、巣立に伝えなきゃ」
宮瀬に促され、板垣はしぶしぶ番台へと歩き出した。
受付を済ませ、まわりを見渡す。男女の脱衣場を仕切る衝立が外され、浴場を背に祭壇が設置されていた。
祭壇の前に並ぶパイプ椅子に腰をかける。遺影を直視できず、祭壇を飾る花の花びらの数を一枚ずつ数えていく。しばらくすると、男湯の暖簾をくぐり僧侶が登場し、お経を唱えはじめた。脱衣場に低い声が伸びる中、三人で焼香の列に並ぶ。
「板垣、喪服は普通、黒だろうよ」
まわりの視線を感じ、赤い背中に抗議する。
「俺は熱血教師だったからな。喪に服す時は赤って決めてんだ」
板垣の勝手な決めつけ癖も、大いに健在らしい。学校は常識を教える場なのに……。さぞ教え子たちは振り回されたに違いない。
列が進み、私の番になる。のろのろと目線を上げ、遺影と対面した。焼香に伸ばした手が止まる。巣立は、高校時代のあどけない面影を残したまま──。いや、丸顔のちょび髭に詰襟とリーゼント。まさに応援団の現役当時の写真だった。しかもその口もとは、ニヤニヤと締まりなくゆるんでいる。
「こんなのいつ撮ったんだ? もっとまともな写真もあったろうに」
笑いを堪えきれず、鼻息で焼香が舞う。
「覚えてないけどさ、きっとこのニヤニヤ顔が一番のお気に入りなんだよ」
宮瀬が目を細め、なにやらメモを取る。板垣も「巣立らしいぜ」と頷いた。
記憶がゆらゆらと立ち上がる。口もとをゆるめる彼の表情に、ある迷言が思い当たった。
あれは高校を卒業する日のことだ。
「これでおしまいか……」
手にしたフィルムカメラを眺め、巣立がため息をついた。先ほど撮った、安永先生の笑えない冗談に沈黙した四人の写真が、最後の一枚だったらしい。
私は卒業証書をバッグにしまい、「そうだな」とだけ返す。
「どんな未来が待ってるだろうね」
校門に背を預け、宮瀬が空を見上げる。その顔に笑みはない。
「ホットな未来に決まってんだろっ」
板垣が太陽に向かい叫ぶ。やはり笑顔はなかった。団長といえども、不安なのは一緒らしい。
いつもは誰かが埋めるはずの間が、ぽっかりと空く。
急に肌寒く感じ、私は学ランの袖を無理矢理に伸ばした。
「どんな未来でもへっちゃらだろー」
ふいに、のんきな声が場を満たす。
「巣立はずいぶん余裕だな。コメディアンの修業こそ茨の道だろうに」
「オレには、人生の極意があるからなー」
巣立は短い首を目一杯に伸ばし、「知りたい?」と私に迫る。
「そんなものがあるならな」
板垣と宮瀬も顔を近づけ頷く。巣立は「よろしい」と言ってカメラを鞄に戻し、両手を広げた。そして、仰々しく告げる。
──ラブ・ニヤニヤ。
「オレにはオレがついている」
「なんだ、それ」
みんなが吹き出す。人生の極意にしては、なんとも軽く、間の抜けた迷言だ。
「ごめん、つい横文字が出ちゃったわー。和訳すると、口もとのゆるみを愛して進め。応援団での3年間がそうだったみたいに、思わずニヤニヤしちゃう方へ進んでさえいれば、人生はオールハッピーになる」
のほほんとした、それでいて一点の曇りもない声色だった。
「この先、世界が敵に回ったとしても、オレがオレの味方でいてやればいいってわけよ」巣立は私たちの顔を見つめ、「オレにはオレがついている。だからオレは一人じゃないんだなー」としみじみ呟いた。
オレにはオレがついている──。だから一人じゃないってのは無理があるだろ、とも思ったけれど、それを上回る心強さに満たされた。
「ニヤニヤこそが生きる道標になるってわけか」
私は背筋を伸ばす。
「その先でフラフラになるまでがんばればいいってわけだ」
板垣が胸を張る。
「そしたら最後にはキラキラと奇跡が舞い降りるってわけね」
宮瀬がウインクを添える。
「いささか都合がいい気もするけどな」
「引間、気にするなよー。どうせ世界は、オレらの都合なんか無視して進もうって魂胆なんだから。少しくらいこっちの都合に寄せても、バチは当たらないって。3年間、鼓手としてバチを握り、バチと蜜月を過ごしてきたオレが言うんだから、間違いない」
巣立が責任感たっぷりに無責任な発言を放った。
皆に倣って、少し胸を張り、空を仰ぎ見る。柔らかな光をまとう青空に向かい、さっきから気になっていたことを意見する。
「18歳で人生を極めるのは早すぎるし、ニヤニヤは横文字じゃなく日本語だ」
こんな迷言を覚えているのは、後に身に沁みたからだ。口もとのゆるみを頼りに天文学者を目指すより、公務員の親が敷いたレールに乗り、市役所に勤めた人生は、幸せとは言い難かった。巣立の極意は正しかった。残念なのは、私がそれを信じなかったことだ。
遺影の巣立と目が合う。ワンサイズ大きめを選んだはずの喪服が、窮屈に感じた。
お経を唱え終えた僧侶が退席する。「通夜ぶるまいのお席へどうぞ」というアナウンスに促され、私たちも移動した。
会場である女湯の洗い場には、カエルのキャラでおなじみの黄色いプラスチックの椅子が並び、その前に食事が用意されていた。女湯をじろじろと見回すのも気が引けて、椅子に腰かけながら、さりげなく視線を巡らせる。造りは男湯とさほど変わらなかった。
「応援団をやっていた頃を思い出すな」
練習帰りには必ず、巣立湯で汗を流したものだ。
「僕なんか、いまだに覚えてるからね。野球部の都大会準決勝」
「あの試合は忘れるわけないだろうよ」
「そりゃそっか」
ことさら笑みを浮かべた宮瀬は、茶碗蒸し用のスプーンをマイクに見立て、実況中継を始める。
「延長12回の裏、1点ビハインドで迎えた我が校の攻撃。炎天下で叫び続ける応援団も、疲労がピークを迎えているようです。おっと、ここで団員たちが何か叫んでいます」
突然マイクを向けられ、「シャイニングしてきたぞっ」と応えてしまう。
「でたー。必死にエールを叫び、酸欠になったことで、目の中で星がキラキラと瞬く現象。人呼んで、シャイニングエール!」
「シャイニングした時は、必ずミラクルが起きる」
当時の興奮が蘇り、呼吸が速くなる。あの日、我が校は怒涛の連打を畳み掛け、逆転勝利を収めた。
「それが人生」
「あの夏が、人生のクライマックスだったな……」
黙っていた板垣が口を開く。目尻に寄った深い皺が、笑みではなく、憂いているように見えた。クライマックスという表現が、その後の人生が下り坂であったことを示すように聞こえたからだ。
「確かにね。応援したい相手がいて、迷いなくエールを口にできて、張り上げた声がそのまま相手の力になる」宮瀬がぽつりと言った。「がんばればがんばった分だけ結果に表れるなんて、贅沢なことだったんだよね」
高校時代、あんなに輝いていた板垣や宮瀬でさえも人生を悔いていることに、やるせなさを感じた。
「失くさないと持っていたことにも気づけない。それが人生だな」
私は肩を落とした。
「衰えないと価値があったことすら見出せない。それが人生だよ」
宮瀬が肩をすくめた。
「下り坂になって山頂であったことを思い知る。それが人生かよ」
板垣が肩を怒らせた。
時計に目をやると、21時を過ぎていた。
「ちょっと、小便」
板垣が杖を手に取り立ち上がった。そそくさと浴室を出て行く。
「板垣が小便っていう時って、たいてい、なんか隠してたよね」
宮瀬の目がきらりと光る。
「そんなこと、よく覚えているな」
「そんなことだけはね……」
宮瀬はため息を一つ吐き、板垣の後を追う。私も慌ててついていく。
脱衣場では、板垣が首を伸ばし、祭壇の奥側を覗き込んでいた。
(7月15日配信の次回に続く)
(遠未 真幸 : 小説家)